「ロシア」や「イスラーム」、「教皇の使者」までもが謁見に…中世ヨーロッパ世界を掌握したオットー1世の「圧倒的な栄光」

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ヨーロッパ随一の強国は、ひとりの男によって作り上げられた。その名は神聖ローマ帝国初代皇帝・オットー1世。欧州を席巻した苛烈な王の生涯は、戦いの軌跡だった。身内からの反乱にイタリア遠征、そして強敵ハンガリーとの戦争。彼はいかにして数多の勢力を下し、その地位を固めていったのか。

オットー1世の生涯を辿れば、中世ヨーロッパが見えてくる。ドイツの源流・神聖ローマ帝国の歴史を綴った『ドイツ誕生 神聖ローマ帝国初代皇帝オットー1世』から一部抜粋・再編集してお届けする。

『ドイツ誕生 神聖ローマ帝国初代皇帝オットー1世』連載第81回

『帰郷早々の「冷遇」は6年に及ぶ「オットー不在」の代償…失った権威を取り戻すためにオットー大帝が歩んだ「道のり」』より続く。

多数の使節

そしてオットーは父母が眠るこの地で宮廷会議を招集した。

王国各地からの貴族はもちろん、デンマーク、ポーランド、ロシア、ボヘミア、ハンガリー、ブルガリア、ビザンツ、ローマ、べネヴェントからも多数の使節がやってくる。さらに前年9月に亡くなった教皇ヨハネス13世の後任ベネディクトゥス6世の使者も駆けつけてきた。

一説によるとポーランド大公ミュシェコは息子を人質に差し出した、とある。さらに大公は息子の髪の房をローマに送った。当時、髪は生命力の印とみなされ、これを送るのは人質を送るのと同じであった。つまりポーランドのキリスト教への改宗はゆるぎないという意志表示である。

ハンガリーが使節を送ってよこしたのも、キリスト教化の証であった。

栄光の宮廷会議

ボヘミアはボレスラフ2世自身がやってきた。宮廷会議はこれに応えるかのようにプラハ司教区設立を決定する。これにより、ロシア人、ヴァラング人(ロシアにルーリック朝を建てたノルマン人)、ユダヤ人の奴隷商が集まる当時のヨーロッパ最大の奴隷市場がプラハから消えることになる。

ポーランド、デンマーク、ボヘミアはオットーの宗主権を認めた。

オットーはこの宮廷会議で栄光に包まれたと言ってよい。宮廷会議の直後にファーティマ朝の使節がやってきたのも、オットーの権威を物語っている。それからオットーはメルゼベルクに宮廷を移し、コルドバのカリフの使節を謁見している。まさにオットーの名声はここに極まった。

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