売野雅勇氏

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 80年代から数々のヒット曲を手がけた作詞家・売野雅勇(まさお・75)がキャリア45周年を迎えた。アイドルの歌からシティ・ポップ、テクノまで、作品数は2000以上。なぜそれほど書けたのか。曲にまつわるエピソードや言葉へのこだわり、クリエイターとしての思いを伺った。

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〈日本の歌謡・ポップスシーンのレジェンド、売野雅勇が作詞家としてキャリア45年を迎えた。総作品数は2000を超える。売野が詞を書いた楽曲のタイトルを眺めると、誰もが口ずさめるヒット曲や名曲がずらり。

 郷ひろみ「2億4千万の瞳−エキゾチック・ジャパン−」、中森明菜「1/2の神話」「禁区」「十戒」、チェッカーズ「涙のリクエスト」「ジュリアに傷心」、ラッツ&スター「め組のひと」(麻生麗二名義)……など。さらに、矢沢永吉「SOMEBODY’S NIGHT」、坂本龍一「美貌の青空」といった、歌謡曲とは一線を画する楽曲も手がけてきた。

売野雅勇氏

 そんな売野の名が一躍広まったのは、約40万枚のセールスを記録した、中森明菜の「少女A」だろう。1982年、歌手としてデビューした明菜は、2作目となるこの曲でトップアイドルになった。〉

アイドルに興味がなかった

 僕の作詞デビュー作は81年。シャネルズ(後のラッツ&スター)の「星くずのダンス・ホール」で、明菜さんの「少女A」は翌年です。所属していた事務所からコンペティションに参加するように言われましたが、アイドルの歌詞は初めてだったので、悩みました。

中森明菜

 というのも僕はずっとテレビを持っていなかったので情報もなく、アイドルに興味がなかったのです。だから、歌本を買い求めアイドルたちの歌詞を数日眺めたり読んだりしました。でも、ほとんどの作品に興味が湧きませんでした。書く気がまったく起きないわけです。

 そんな中で、阿木燿子さんが山口百恵さんに書いた詞だけが異彩を放っていました。抜群にカッコよかったんですね。百恵さんは当時「イミテイション・ゴールド」や「プレイバックPart2」のような阿木さん・宇崎竜童さんコンビによる不良っぽいハード路線が際立っていました。リアルなだけではなく詩情もありました。すごい才能だなと、正直思いました。

チェッカーズ

 阿木作品を分析しながら、活路を見いだして書いた詞が「少女A」です。アルバム収録曲のコンペでしたが、最終的にシングルのA面に選ばれました。

 新聞の社会面や週刊誌で、未成年の表記は「少年A」「少女A」のように匿名とされますよね。そこが発想のもとですから、最初、「少女A(16)」というタイトルでした。それはいき過ぎだろうということになり、(16)は取りました。

 後々、この歌詞に明菜さん本人が拒否反応を示していたと聞きました。嫌がる彼女をディレクターの方が説得して、一度だけの約束で歌入れをしたそうです。それが、あのシングル盤「少女A」の歌唱でした。

売野氏と荻野目洋子

中森明菜に感じた「絆のような愛」

 そのレコーディングに僕は立ち会えなかったものの、他の楽曲のときに、一度だけスタジオで明菜さんとお会いしたことがあります。とてもシャイで傷つきやすい感じの繊細な人だなという印象がありました。ほとんどの作詞家がそうだと思いますが、自分の書いた歌詞を歌ってくれる歌手の方に深い愛情を持ちます。僕がそのとき、明菜さんに感じたものは、心の底から自然と湧き上がる絆のような愛だったと思います。

 この「少女A」のヒットで、明菜さんの「声」はもちろん、繊細でちょっと不良っぽい強さを含んだ個性は広く受け入れられて、日本の音楽界を象徴する歌姫としてスターダムに駆け上がりました。中森明菜にしかなれない、中森明菜という特別な存在になったのです。僕にとっても「少女A」は運命の曲でした。

“おしゃれな不良”に共感

〈51年、売野は栃木県で生まれた。織物の街、足利市で少年時代を送っている。おしゃれで遊び人の祖父の影響を強く受けて育った。祖父は若くして妻と死別。36歳のときに24歳の女性と再婚した。2人目の妻は大変な美形。売野の自慢の祖母だったという。祖父は羽振りがよく市内の置屋の向かいに居を構え、快楽主義的な日々を過ごした。

 高校卒業後、東京へ出て上智大学文学部で学んだ売野は、広告代理店などを経て朝日新聞の三行広告に目を留める。〈求む。音楽好きのコピーライター〉というキャッチコピーに応じ、東急エージェンシー・インターナショナル(現フロンテッジ)に入社。CBS・ソニーで扱う主に洋楽アーティストのレコードのコピーで音楽の感覚を磨き作詞家に。〉

「少女A」のヒットは駆け出しの作詞家だった僕の路線も開拓してくれました。

 当時はシャネルズや伊藤銀次さんの詞も書いていましたが、シャネルズの鈴木雅之さんたちは頭がシャープな“おしゃれな不良”というのかな、特別なカッコよさがありました。育った環境は違いますが、祖父の遺伝子を継いだ僕にも彼らと共通するスピリットがあったのでしょう。彼らの気持ちが自分のことのようによく分かりました。

 鈴木さんの実家は東京・大田区の京浜工業地帯の一画にある町工場です。

 また、後々出会うことになるチェッカーズも、アマチュア時代にはシャネルズに憧れドゥ・ワップ(コーラス主体のブラック・ミュージック)っぽい楽曲を好んで歌っていましたね。

ピュアネスの象徴

 彼らの原点はストリート・コーナー。硬派だけど、愛嬌(あいきょう)があって、よく笑い、キュートで、セクシー。音楽シーンのメインストリームにいながら、ちょっと斜に構えているところも魅力です。ジョン・レノンの楽曲に「労働者階級の英雄」があります。ジョン・レノンも自分をブルーカラーの代弁者と捉えていたのだと感じますね。僕も、そんな感性を大切にして詞を書きました。ハリウッド映画でジェイムズ・ディーンが体現してみせた、ピュアネスの象徴としての存在、その系譜です。

 明菜さんのシングルは84年の「十戒」まで、チェッカーズは86年の「SONG FOR U.S.A.」まで、ラッツ&スターは、84年の「唇にナイフ」まで、自分の肌に合った作品を、青春のアイコン、ジェイムズ・ディーンの映画を撮るような気分で書いていました。

 僕は今でも、明菜さんと藤井フミヤさんは20世紀を代表するポップスターだと思っています。

他人には書けない歌詞

〈80年代中盤から作詞家としてさらに充実。売野はさまざまなシンガーに詞を提供した。これまで紹介したもの以外にも稲垣潤一「夏のクラクション」、河合奈保子「エスカレーション」、菊池桃子「Say Yes!」、吉川晃司「ラ・ヴィアンローズ」、近藤真彦「ケジメなさい」、シブがき隊「喝!」、荻野目洋子「六本木純情派」……などなど。〉

 あの頃は1カ月に20〜25曲ペースで書いて、曲のバリエーションも豊富になっていきました。明菜さんやフミヤさんには、脳の“不良回路”を使って書き、坂本龍一さんや菊池桃子さんのときには“洗練”の回路です。稲垣潤一さんや杉山清貴さんのときは“シティボーイ”の回路。シブがき隊や沖田浩之さんには、男気とキッチュさを意識した詞も書いています。シンガーによって脳のいろいろな回路を使い分けられるようになりました。

 作詞家としての充実期は80年代後半から90年代前半ですが、他人には書けない歌詞を特に意識し始めました。きっかけは、山本達彦さんのディレクターの一言。「ほかの歌手が歌ってないような詞を書いてくれませんか」と言われたのです。

 山本達彦さんにしか歌えない詞を最初に意識したのは85年の「夏の愛人」や86年の「神の消えた島」で、それが自分の転機になりました。

 言葉への思いが増すと、鋭利なシャープさと詩情を強く意識するようになります。曲名も詞も、単語をさらに選び抜き、推敲の時間も増えました。93年には、東京パフォーマンスドールに「キスは少年を浪費する」を書いています。

 あのころは経済人類学者の栗本慎一郎さんの本を毎日読んでいて、そこに“蕩尽(とうじん)”という言葉が使われていたんですね。蕩尽とは“使い果たす”という意味ですが、そのままでは歌の詞にはなりません。それで蕩尽の通俗版として、“浪費”を当てました。

一行も書けない

 自分の詞のスタイルが完成に近づいていると感じたのは、96年の中谷美紀さんのアルバム「食物連鎖」です。プロデュースと作編曲は坂本龍一さんでした。

 あのとき、アルバム用の5曲の歌詞を書くために、赤坂のキャピトル東急ホテル(当時)にこもりました。かつてビートルズやマイケル・ジャクソンも宿泊した歴史的・伝説的なホテルです。

 ところが、一行も書けない。1週間たっても2週間たっても書けない。しかし突然、チェックインして20日目、ホテル内でエレベータを待っていたときに「悲しい世界を浄(きよ)めるように街角で微笑(わら)って」という一行がふと浮かびました。作品の核となるフレーズでした。僕は延々とこれを待っていたのです。

 1階に降りレストランでペンを借りてメモして、食後数時間で一曲書き上げたことを覚えています。曲名は「Mind Circus」。僕の造語です。「身体の極限まで挑むエンタテインメントがサーカスならば、意識の極北を求めるのがMind Circus」という発想でした。

無意識で使ってしまうほど好きな言葉

 僕には無意識で使ってしまうほど好きな言葉があります。「少年」と「青空」です。坂本さんプロデュースのGEISHA GIRLSの「少年」、矢沢永吉さんの「青空」、坂本さんの「美貌の青空」など曲名にもしました。

 なぜ少年と青空が好きなのかは分かりません。

 一方で、好まない言葉もあります。「したたか」「しなやか」「凜として」。この言葉を使うと知的とかおしゃれかもしれない、という垢抜けなさが嫌いなのです。

 多くの歌詞を書くと、どれくらいが実体験ですかとよく聞かれます。記憶の問題だと思うのですが、全ての歌詞で体験が0%というものはないと思います。数%から20%くらいは体験です。自分がまったく知らないことは書けません。

 84年の東京JAPの曲「摩天楼ブルース」はほぼノンフィクションに近い気がしますね。当時のガールフレンドがほかの人と浮気して、その切なさを描いたわけです。すごく苦しかった。この前後に書いたものにもその影が差しています。切なさを言葉にして救済されたかったのかもしれませんね。「摩天楼ブルース」の主人公はあのまま僕です。

 愛する存在との死別で、詞と現実のギャップも知りました。45歳のときに父親を亡くしました。それまでに体験したことがないほどの深い悲しさでした。それはいまでも癒えません。

 でね、思ったんだね。自分はたくさんの悲しみを詞にしてきたし、数え切れないほどの寂しさを書いてきたけれど、それは表層的だったんじゃないか、と。

桜井研究のために車を買い替え

〈このように喜怒哀楽に満ちた売野の作詞家としての45年間の道のりは充実していて、競合する同業者の存在を脅威に感じたこともほとんどないという。〉

 それでも、強いて挙げると、Mr.Childrenの桜井和寿さんには仰天しました。「innocent world」を聴いて、どうしたらこんな詞を書けるのか。大袈裟に言うと、オレ、終わっちゃったの? 時代に置いていかれた思いでした。ミスチルの詞のどこが新鮮だったかというとね、全部です。全てが新しかった。

 そんな新鮮な感覚を自分のものにしたい。強烈な欲望が湧き上がりました。嫉妬ではないんです。むしろ愛情とかエキゾチックなものへの憧れといった言葉の方が近い気がします。

 なんとしても桜井さんの生活観や価値観、倫理観にまで触れてみたい。そう思った。で、ミスチルが所属するレーベルの社長と親しかったので、すぐに電話して桜井さんの乗っているクルマの車種を尋ねました。クルマは持ち主のライフスタイルそのものであり、車種を知れば生活の輪郭くらいは見えるからです。でも、不審に思ったことでしょうね(笑)。いきなりですから。

 愛車はフォルクスワーゲンのゴルフのワゴンでした。そこから引き出せるキーワードは「実用」とか「質実」。当時の僕の愛車はスポーツ車。桜井さんとは対極です。半ば冗談のように、しかし真剣な気持ちで、僕はオープン・カーをボルボのワゴンに買い替えました。

 桜井研究は数カ月やりました。デビュー・アルバムから時間をかけて聴きました。分析的に何度も聴いたので、彼の発声に山形か秋田の訛りがあることにも気が付いた(笑)。東京生まれのシティボーイだと思っていたので、これもレーベルの社長に電話でただしました。「東京の練馬出身ですよ」の答えに、僕の事務所のスタッフは「桜井ノイローゼです」と大笑いです。

偶然から天職

 しかし、数カ月後、月刊カドカワに「ミスチル大特集」が組まれ、その中に「少年時代は毎夏山形の祖母の家で過ごした」という記述を見つけ、敵を取ったような気分になりましたね(笑)。それにしてもシツコい性格ですね。そんな自分だから書き続けていられるのかもしれません。喜びも、悲しみも、起きたすべてが作品化されるのが作詞家です。そんな生々しい職業に就いたことに幸せを感じています。

 若い頃偶然に始まった仕事ですが、いまでは僕の天職だと思います。

 ヒット曲が生まれると、街の至る所で自分の書いた歌が流れていて、それを偶然不意打ちのように聴くと恍惚となります。作者にとっては無上の喜びですね。かつて香港の街を歩いているときに、不意に明菜さんの「禁区」が聴こえてきたことがあって、あっ!と思わず辺りを見回してしまいました。うれしかったですね。分身のような言葉ですから。自分が書いた詞に自分がしびれた。至福の瞬間です。

(構成 神舘和典)

「週刊新潮」2026年4月9日号 掲載