アニメ版『花ざかりの君たちへ』が良すぎる 振り返りたくなるドラマ版と平成の“キュン”
アニメ版『花ざかりの君たちへ』(以降、『花君』)が面白い。平成6年生まれ、流行り言葉で言えば(もう流行ってすらいないかもしれないが)一時期“平成一桁ばばあ”の類である筆者にとって、『花君』は特にドラマ版がド世代・オブ・ド世代。というより、ここ最近はシール交換が流行り、プライズにはお茶犬が、ガシャポンには「kitson」のミニチュアバッグコレクションが登場、しかも『しゅごキャラ!』のコラボカフェまで開催している。本当に今は2026年なのだろうか。疲れすぎて自分が幼児退行しているのか、世間が平成に立ち戻りすぎているのかわからなくなってしまう。“昭和レトロ”と言われていた頃の昭和生まれはこういう気持ちだったのだろうか。
参考:『イケパラ』はなぜ何年経っても色褪せないのか 堀北真希版&前田敦子版の魅力を熱弁
『花君』は1996年から2004年にかけて漫画が『花とゆめ』(白泉社)にて連載。その後、実は台湾で一足先にテレビドラマ化され(『花樣少年少女』/2006年)、その1年後に『イケパラ』でお馴染みの堀北真希主演『花ざかりの君たちへ~イケメン♂パラダイス~』(フジテレビ系/2007年)が日本で放送。そしてなんと、2011年には主演に前田敦子を迎え、『花ざかりの君たちへ~イケメン☆パラダイス~2011』(フジテレビ系/2011年)として再びテレビドラマ化、さらに2012年には韓国でもドラマ化されている(『花ざかりの君たちへ For You In Full Blossom』)。まさに平成のラブコメを代表するような作品と言っても過言ではない。
こんなにも愛されてきた『花君』の原作が、令和にようやくアニメ化された。アニメ化にあたって、以前から原作者の中条比紗也が編集部と内容を話し合いながら進められてきた企画ということで、先生はキャラクターのラフやシナリオを見ながら、漫画と違った表現方法で紡がれる 『花君』の世界観をとても楽しみにしていた、とのこと。それゆえに2023年、完成版を観る前に急逝してしまったことが悔やまれる。
実際、アニメ版を観ていると原作者・中条のタッチに忠実なデザインで描かれるキャラクターが生き生きと動き回っていて、『花君』の空気に触れること自体に、懐かしさ以上の気持ちが込み上げてくる。そして、観れば観るほどドラマ『イケパラ』の再評価につながっていく。いかにクオリティが高く、原作に忠実な実写化だったのかわかるのだ。
・ドラマ版の再評価にも繋がる、アニメ版
原作に忠実な実写化と言っても、もちろん変更点がなかったわけではない。例えば、佐野泉が陸上を辞めたきっかけは、原作やアニメ版で描かれたのが“中学の時のマネージャーを庇ったから”だったのに対し、ドラマでは“アメリカ合宿中に芦屋を助けたから”という理由に変わっていた。しかし、これにより、瑞稀が女性でありながらも男子校に潜り込んでまで自分の手で佐野に高跳びを再開させたい、と思う動機がより理解しやすくなり、プロットにおいてかなりプラスに働いたことがわかる。
また、当時のドラマ版と今回のアニメ版のキャラクター解釈の違いも、作品を楽しむ1つのポイントだ。瑞稀はアニメ版だとより女性らしく感じるのだが、実写化した際のあのぎりぎり美少年としても捉えられるラインは、当時堀北にしか体現できなかったことを痛感。そんな中で一番アニメとドラマ版でギャップが感じられるキャラクターは、佐野ではないだろうか。
ドラマ版で小栗旬が演じた佐野は、無口でクール、人を寄せ付けない「孤高のアスリート」としての側面が強調されていた。平成のトレンドでもあった「俺様・ツンデレ」要素が強く、だからこそデレた時の破壊力が凄まじかったわけだが、原作準拠のアニメ版の佐野は少し“温度”が違う。ドラマ版に比べて、驚くほど優しいのだ。
アニメ(原作)では割と序盤で佐野が、瑞稀が女性であることに気づく。それゆえに、甘くなるターンが早い。そんなふうに原作回帰したことで、彼の本来の魅力が発揮されているのが良い。
そして、中津秀一。ドラマ版で生田斗真が演じた中津は、アドリブ満載の「独り言劇場」で視聴者を爆笑の渦に巻き込んでいた。もはや原作を超越した「イケパラの中津」という独立したキャラクターだったと言っても過言ではない。一方で、アニメ版ではこちらも王道の当て馬キャラに原点回帰。過剰なコメディ演出は抑えつつ、関西弁の親しみやすさと、瑞稀への恋心に揺れるピュアな葛藤を丁寧に描く。「そういえば中津って、切ないキャラだったよな」と、思い出させてくれるのが大変ありがたい。
しかし、ドラマ版を振り返りながらも圧倒的に感じるのは、『花君』という作品そのものが持つ“エネルギー”なのだ。
・ご都合主義、ファンタジー満載の少女漫画展開がいま楽しい
正直、アニメ版『花君』は単純に観ていて“楽しい”。疲れた時でも観られるし、なにより色彩設計や演出を現代的にブラッシュアップしながら、あの平成初期特有のツッコミどころ満載の展開や“ご都合主義”を成立させているバランス感が見事である。
正直、冷静に考えれば、女子が男子校に潜り込んでバレないなんてことはありえない。セキュリティもコンプライアンスもプライバシーも、現代の感覚からすればツッコミどころのオンパレード。いわゆる「ご都合主義」の極みである。
ここ数年のドラマやアニメのトレンドは「考察」や「リアリティ」、あるいは「社会的な正しさ」だったように感じる。恋愛ジャンルの作品も現実的な設定や内容のものばかりが増えたように感じ、つい自分の生きる日常の地続きにある世界として捉えてしまいがちになってしまった。そして、そういった作品では登場人物の倫理観が作品と共に厳しく問われる。もちろん、その視点を持つことも大切であることは百二十も承知の上で、時折フィクションにおいて「これは現実に即しているか?」「ポリコレ的に正しいか?」と無意識にジャッジしてしまうことに疲れてしまった。
そんななか、『花君』世界はあまりに無防備だ。アニメーションで描かれることで、実写以上にフィクションとして捉えやすくなっている点も手助けしているが、「好きだから会いに行く」「男装して男子校に入る」という突拍子もない行動原理が、誰にも咎められず、むしろ物語を動かすエンジンになっている。そこに、息苦しさにさえ感じるような整合性はない。その代わり、「理屈よりも情熱が優先される」というエネルギーがある。YOASOBIが手がけるオープニング曲「アドレナ」がまさに体現するような、“アドレナリン”を感じるのだ。
『花ざかりの君たちへ』が改めて面白いのは、めちゃくちゃだった平成という時代を懐かしむ以上に、過剰なリアリティと正しさを求められる時代において、「細かいことはいいから、とにかく幸せになろうぜ」と背中を叩いてくれる、底抜けに明るい“ファンタジー”の力強さに救われるからだ。「そんなことあるわけないじゃん」と思わず笑ってしまいそうな平成の“キュン”が、物語の中で傍若無人に恋をする彼らのエネルギーが、いまは欲しい。
(文=アナイス)
