昨年11月に豪州のWSWに新天地を求めた小川。念願だった海外移籍を叶えた。写真:本人提供

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 日本を離れ、海外に活躍の場を求め、戦い抜く――己の信念を貫き、独自のキャリアを刻むサムライたちの知られざるストーリー。オーストラリアのウエスタン・シドニー・ワンダラーズで奮闘した小川慶治朗の生き様をディープに掘り下げる。

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 かつて柴崎岳(レガネス)や宇佐美貴史(G大阪)とともに、2009年U−17ワールドカップに参戦し、「プラチナ世代」の1人と評された小川慶治朗。ヴィッセル神戸を皮切りに、湘南ベルマーレ、横浜FCを渡り歩いたスピード系アタッカーは、昨年11月からオーストラリアAリーグのウエスタン・シドニー・ワンダラーズへ赴き、1シーズンを戦った。

「異国でのプレーは前々からの夢」と話す小川にとって初の海外挑戦。キャリア初のリーグ全26試合出場を達成したものの、2ゴールという数字には「助っ人としてはもっと結果を残さなければいけなかった」と反省する。チームも10チーム中8位に終わり、シーズン途中には監督も交代。数々の困難にも直面したという。

 そもそも同クラブ入りは横浜FCの後押しが大きかったという。小川は2020年末の神戸退団時から海外行きを第一に考えていた。長年の願望を横浜FC側も理解し、「1年活躍してステップアップしてくれればいい」と前向きに受け止めてくれた。
 
 その言葉を聞いて横浜FC行きを決断。新たな気持ちで2021年シーズンに挑んだところ、ご存じの通り、クラブはJ1で低迷。J2降格危機に瀕してしまった。

「ワンダラーズからオファーが来たのは、残留争い真っ只中の頃。正直、今のタイミングでは行けないと思いつつ、クラブに相談すると『小川は貴重な戦力だけど、夢を応援する』と言ってくれた。本当に有難く感じました。すぐに行くことを決め、11月2日のフライトで現地に渡り、11月末の開幕に間に合わせました」と、急転直下のレンタル移籍だったことを明かす。

 とはいえ、英語が全く話せない彼は入国審査で引っかかるなど、いきなり壁にぶつかった。現地では「英語は話せて当たり前」という扱いをされ、ミーティングでも意見を求められる。何が何だか分からないなか、喋ると、周りから「お前、何言ってるんだ」と笑われる。戸惑いの連続からのスタートだった。
 
「みんなでグラウンドに出るとか食事を一緒に食べるとか決まったルールがあって、それが分からず何度も怒られましたね(苦笑)。でもピッチ内での意思疎通は何とかなった。アタッカーなんで細かい指示を出すDFやMFよりは恵まれていたと思います。

『ビハインド』と言われれば、敵の背後に抜け出せばいい。僕は育成年代から『裏抜け』を武器にしてきましたけど、シンプルにそれを出せばよかったし、面白いように裏を取れた。正直、あれだけ飛び出せたのはプロになってから初めて。当時のカール・ロビンソン監督も評価してくれて、先発で使ってもらえました」

 小川がいち早く察知したAリーグの特徴は、「サイドのスペースが生まれやすい」ということだった。日本だとチャレンジ&カバーの原則を全員が徹底するから、ペナルティエリア付近がガラ空きになることはそうそうないが、Aリーグのサイドバックは戦術理解度が低いケースが多かった。味方GKのロングキックに飛び出し、そのまま相手GKと1対1のビッグチャンスが生まれるなど、推進力ある小川は非常にやりやすさを感じたという。

 だが、徐々に状況が変わっていき……小川はしみじみと語る。
 
「それで得点を量産できていたらよかったけど、ゴール数は伸びず、チームも勝てなくて、1月に監督が交代してしまったんです。後を引き継いだマーク・ルダン現監督は守備を強く要求する指導者。それまでのように裏の駆け引きだけをしていればいい状況ではなくなりました。僕は右サイドハーフで出ることが多かったんですけど、後ろのケアに気を取られて、攻撃の迫力が低下しましたね。