「クズ男は利用するだけ」男を憎む有能な美女の、心に秘めた意外な一面
貴方は、自分の意外な一面に戸惑った経験はないだろうか。
コインに表と裏があるように、人は或るとき突然、“もう1人の自分”に出会うことがある。
それは思わぬ窮地に立たされたとき、あるいは幸せの絶頂にいるとき。
......そして大抵、“彼ら”は人を蛇の道に誘うのだ。
前回登場したのは、失望の結婚生活の末に道を踏み外した雄一(33歳)。
今回は、その不倫相手・美砂(34歳)の「もう1人の自分」のを紹介する―。

広く無機質なリビングルームに、切ないピアノとジャズ・ヴォーカリストの甘い歌声が響き渡る。
日本語にするとそんな意味の言葉が、美砂の心を、ほんの少し搔き乱す。
最新の4K液晶テレビに似つかわしくない、粒子のざらついた荒い映像。白昼夢のようにロマンティックなヴォーカルに魅入られている美砂の背後から、珠美が厳しい声を投げかけた。
「お姉ちゃん、引っ越しは来週でしょ?断捨離するのは賛成だけど、いちいちビデオの中身まで見て確認してたら準備なんていつまでも終わらないよ」
7歳年下の妹の声で一気に現実に引き戻された美砂は、リモコンのストップボタンを押して映像を止めた。
麻布十番のスタイリッシュなデザイナーズマンションは、子育てをするには不向きな上に、雄一の自宅から近すぎる。
そんな理由で決めた引っ越しだったが、長引くつわりのせいで準備は一向に進まず、雄一の他にただ1人妊娠を打ち明けている妹の珠美に手伝いを頼んでいるのだった。
貴重な週末の時間を割いてくれている珠美に若干の気まずさを感じ、美砂は取り繕うように長い髪の毛を掻き分ける。
「うるさいわね。仕方がないでしょう?VHSにはチャプターメニューなんてないんだから、こうして一度再生してみるしかないのよ。だいたい私、妊婦なのよ?もう少し優しい言い方できないの?」
二度と、男は信じない。美砂が結婚願望を失った理由とは
「幸せな家庭」なんて、虚構にすぎない
クールに悪態をつく美砂に、珠美はウンザリした顔でため息をついた。
「そう、お姉ちゃんはもうすぐママになる。でも、パパはいない。何度も言うけどさ…既婚男性相手に妊娠して、脅して認知だけさせるなんて、ハッキリ言って正気とは思えないよ」
妊娠が判明してから飽きるほど浴びせられているお決まりのセリフを、美砂はロウソクの火でも吹き消すかのように軽いため息で否定する。
「しょうがないじゃない。結婚に興味はないけど、子供だけは欲しかったんだから…色々都合が良かったのよ。それに、珠美にお説教なんてされたくない。あなただって、全く信じていないんでしょ。”幸せな家庭”なんて…」

美砂と珠美の父親は、美砂が高校2年生の時に家庭を捨てて浮気相手の女性の元へ去ってしまった。以来一度も会うことはなく、3年前に肝硬変で亡くなったと聞いている。
離婚前から2年間も続いていたという父親の浮気を、母は必死に隠す努力をしてくれた。
しかし、多感な高校生の頃の事だ。当時小学生だった珠美とは違い、美砂は父親の不貞をしっかり理解していた。
そしてその時に受けた張り裂けるほどの胸の痛みは、大人になった今も美砂の心にまるで呪いのように根を張り続けているのだった。
「経済的に不自由していなければ、子供に父親なんて必要ない。そのために高収入な仕事についたんだから、誰にも文句は言わせないわ。でも…」
そこまで言って美砂は、少し目立ち始めた自らの腹部に手を添える。
「どんなクズ男にも一つくらいは感謝すべき所があるものね。雄一は私にベビーを授けてくれたし、父さんは私にジャズを遺してくれた」
美砂の足元には、珠美がトランクルームから運び上げてきた2つの段ボール箱が口を開けていた。中身は全て、ジャズ関連のレコードとVHSだ。
家を出た父親が残していった、様々な音源やライブ映像。父親を憎んでいるはずの美砂がこれらのコレクションを譲り受けたのは、「単純にジャズが好きだから」。決して形見分けなどではない。乾いた感情がとらせた、合理的な行動だ。
美砂は珠美が何も言い返してこないことを確認すると、手に持っていた古いVHSデッキのリモコンを握り直す。
再生スイッチを押して再び甘い歌声に聞き入ろうとした瞬間。呆れたようにまぶたを閉じていた珠美がこれみよがしに大きなため息をつき、ゆらりと立ち上がった。
「ねえ、その段ボールの中身全部見るつもりなら、私もう帰るね。お姉ちゃんお金だけはあるんだから、引越し屋さんにお任せすればいいよ」
「分かったわよ、冷たい妹ね…」
玄関で靴を履く珠美の背中に、美砂は拗ねたように言葉を投げつける。
魚の小骨のように突き刺さる小さな苛立ちを背中にぶつけられた珠美は、パンプスのつま先をトン、と床に打ち付けると、不意に美砂の方を振り返った。
心の裡を露わにしないクールな美砂に、珠美の鋭い一言が突き刺さる
淡い恋心が、軽蔑に変わった瞬間
「あのさ」
振り返った珠美の顔は、しらけたように無表情だ。呼びかけたきり黙り込んでしまった珠美にしびれを切らした美砂は、さっきよりもほんの少しばかり苛立ちのボルテージをあげて、珠美の視線に応える。
「なによ」
姉妹間でのしばしの不毛なにらめっこは、珠美がフイと視線をそらしたことで終わりを迎えた。
珠美はドアノブに手をかけ扉を薄く開くと、その隙間に体を滑り込ませる。
そして、扉が閉じる直前に、捨て台詞のように美砂に向かって呟いた。
「お姉ちゃんは自分のこと、自立したクールな女と思ってるのかもしれないけど…。平気なふりしてるの、ほんと痛々しい。素直になればいいのに」
珠美の言葉に柄にもなくカッと血が上った美砂は、感情にまかせて手元にあったクッションを玄関へと投げつける。
しかしクッションは標的である珠美に届くことなく、閉じてしまった玄関ドアにバウンドすると、虚しく床へと落下した。
―この私が、無理してるって言うの!?バカにしないでよ。私はただ、クズな男を計画通り利用してるだけなのよ!!
心の中で叫ぶように反論してみたところで、すでに珠美の姿は無い。
むしゃくしゃした感情を抑えられない美砂は、押さずにいたリモコンのボタンに改めて指をかけると、途中になっていたライブ映像を再生し始めた。
再びテレビから流れ始めた官能的な歌声に、ささくれだっていた心が次第に鎮まり始める。
いつもそうだ。感情が抑えられないほど波打ってしまう時、美砂はジャズの力を借りて冷静な自分を取り戻す。
そう、突然誘われた京都での夜、雄一をジャズバーに誘った時のように。

先ほどから伝説的なジャズ歌手が語りかけるように歌い上げているのは、往年のジャズの名曲だ。
外銀のトレーダーとして活躍する美砂にとって、英語の歌詞はもはや日本語と変わりなく耳にすんなりと入ってくる。
その一説を意訳しながら、心の中で唱えた。
―冷静になって、愚かな私の心
―こんな夜には、愛と興味の区別がつかなくなってしまうだけなの
皮肉とも取れる切ない言葉に、美砂の体が思わず固くなる。
―そう、愛してなんかいない。雄一も、父さんも。
確かに、同僚だった雄一のことは、以前から憎からず思っていた。
だが、接待の帰りに初めて誘われた時…美砂は心底雄一を軽蔑したのだ。
―だから私、彼をとことん利用してやるって決めたのよ…。
情緒的な歌声に心を乱されてしまうことを危惧した美砂は、慌ててビデオをストップする。
そして、雑念を振り払うように両手で顔をゴシゴシと覆うと、気持ちを機械的に切り替えて足元の段ボールを覗き込んだ。
「もう中身は確認できたし、このビデオはこれ以上見る必要無し。…次はこれをチェックしようかな…」
段ボールの中からランダムに取り出したのは、なんのラベルも貼られていないVHSだった。
美砂はおもむろにテープをデッキにセットし、再生ボタンを押す。
しばらく続く真っ暗な画面。
―空テープかな…?
そう思った美砂が、取り出しボタンに手を伸ばしかけたその時だった。
突如眩しく光りだした画面に、美砂の目は釘付けになる。
「ちょっと…。なに…これ…?」
信じられないビデオの映像が、美砂の中の「もう1人の私」の存在を呼び覚ます
もう1人の私。それは、愛を求める自分自身
『美砂〜、笑って笑って!』
『お父さーん、ビデオ撮ってるの〜?』
画面に大きく映し出されているのは、子供の頃の自分だ。
年は、11〜2歳といったところだろうか。まだ未就学児らしきヨチヨチとした足取りの珠美が、当時の自宅の前で恥ずかしそうに立つ美砂の足元にまとわりついている。
『さ、美砂ちゃん。大人になった美砂ちゃんに、メッセージをお願いします!』
そう誘導するのは、紛れもない父親の声だ。
二度と思い出すことはないと思っていた、懐かしい声。まだ自分たちを裏切る前の、誠実で、優しい、父の声だった。
そんな父親の声に促され、画面の中の小さな自分がモジモジしながら口を開く。美砂は思わず、画面へとにじり寄って耳を研ぎ澄ませた。
『えっとぉ…。大人の私、元気ですか?』
『私の夢は、お嫁さんです。えっと、大人の私は、大好きな人と結婚して、お母さんになってますか?』
『お父さんみたいな優しい人と結婚して、お嫁さんになって、お母さんになってますか?えへへ…。お父さぁん、もういいよ〜!恥ずかしい』
体をくねらせながら、途切れ途切れに喋る小さな自分。
『ハハハ…よく言えました』
最後にそう父親が喋ったところで、映像はブツリと切れてしまった。

呆然とする美砂の目の前に突如、ザーーーと大きな音を立てて容赦ない砂嵐の映像が襲い掛かる。
美砂は震える指先でデッキからテープを取り出すと、開けてはいけなかったパンドラの箱を再び封印するかのように、それを両手で強く握りしめた。
だが、一度開いてしまった感情の蓋は思うように閉じることができない。記憶の嵐に暴力的なほど振り回された美砂の頬は、普段の冷静な自分からは想像もできないほど、とめどない涙に濡れそぼっていた。
―なんで?なんで涙が出てくるの?この後に、父さんは他の女の元へ走るのよ。最低のクズ。まるで、雄一みたい。ううん。雄一が、父さんみたいなの?クズな男。クズな男たち。…何も知らない、バカな私!!
まとまらない思考が、砂嵐のように美砂の心を襲う。
優しい父親。
愛を囁く雄一。
去って行った父親。
「勝手に産めよ」と言い捨てた雄一。
気がつくと美砂は、手に持ったビデオの磁気テープを取り返しがつかないほどめちゃくちゃに引っ張り出し、ゴミクズのようにグシャグシャと握りつぶしていた。
何度も深呼吸を繰り返し、荒い息をやっとのことで整える。
もはや原形をとどめていないビデオテープをゴミ袋に乱暴に投げ込むと、美砂はいつものように冷静な瞳を取り戻し、空いた両の手を使って乱れた髪の毛を手ぐしで梳いた。
洗面所に向かった美砂は、涙で引き攣れた顔を水で洗い、冷たく光る鏡に顔を映し出す。
雪のように白い美砂の顔は、ビデオに映っていた桃色の頬をした子供とは、まるで別人のようだ。
―さよなら。心のどこかで愛を信じていた、もう1人の私。とっくの昔に消えたと思っていた、純粋な私。
美砂は心の中でそう呟くと、冷静な心でそれ以上の思考をシャットダウンする。
―本当に、さようなら。
思い出の中で微笑むもう1人の小さな自分が、キーの高いピアノをはじいたようにコロコロと笑う。
そしてすぐに、ビデオの映像がブツリと途切れるように、二度と思い出せない暗闇の中へと飲み込まれていった。
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崩壊した家庭で育ったもう1人の女性・珠美の知られざる一面

