-年の差婚-

40代のリッチな夫に、20代の美しい妻。
多くの人は思うだろう。打算で結ばれた男女。
そこに「愛」などあるはずはない、と-

51歳で急死した資産家の山中修也。4年前に結婚した美しい妻、塔子(30)とは、22歳の年の差婚だった。

未亡人となった塔子は、初対面の保険調査員の小林真奈(30)に突然、告白する。

-夫を、愛してはいませんでした

22歳差の男女は、なぜ夫婦となることを選んだのか。
「夫を愛していない」という言葉に秘められた真意とは?

ついに最終回。謎に包まれていた未亡人の胸の内がいま明かされる。




なぜ、プロポーズは交わされたか


「結婚しよう。ずっとあなたの側にいたい」

港区高輪のランドマークとも言われているタワーマンション、地上35階。中央に庭がある変わった間取りのリビングルームで交わされたプロポーズの言葉を、山中塔子(30)は思い出していた。

都心の景色が一望できる巨大な窓ガラスに、明け方から雨が叩きつけている。

この部屋の主人である山中修也(51)がこの世を去った日と同じように。だが今日の雨は、梅雨の始まりを知らせたあの時とは違い、秋の終わりと冬の訪れを告げる雨だ。

「結婚しよう。ずっとあなたの側にいたい」

そう。ちょうどこの季節だ。

自分が、山中修也という男に、この言葉を告げたのも。



4年半前のあの日、当時25歳だった塔子が「結婚しよう」と初めて告げたとき、22歳年上の経営者は数秒黙り込んだ後、豪快な笑い声を上げた。

「本当に面白い子だね、きみは」

冗談ではないと伝えても、彼は余裕の笑みを崩さず「面白い」とくり返していた。

2回目に同じことを告げると、男らしく分厚い手のひらで、頭をポンポンと撫でられた。

「きみならいくらでも相手がいるだろ。やめときなさい、こんなおじさん」

3回目の時、彼はひどく酔っていた。

「はいはい、わかった。おじさんの負けだよ」

そう言って次の瞬間にはソファに倒れ込み寝息を立てていた。

翌朝ことの顛末を話すと、彼はサッと顔色を変えた。

「酔っていたとはいえ軽率なことを言ってすまなかった。帰りなさい。おれとはもう会わない方がいい」

そうして連絡が途絶えた。

「塔子さん、明けましておめでとう。元気か?」電話が鳴ったのは、それから1ヶ月と少し経った、雪のちらつく午後のことだった。


25歳の美女が、22歳年上の男を選んだ理由とは…?


なぜ、彼女は彼を見つけたのか


塔子には幼い頃からふしぎな能力がある。

それは、死の匂いが分かる、というものだ。

異様に嗅覚の鋭い子ども、それが塔子だった。花の名前はすべて匂いで覚えたし、曇りの日は空気の匂いから雨が降るまでの時間を言い当てることができた。

ある日、母親が幼い塔子と駅のホームに並んでいると、塔子が急にぐずり始めた。「ママ、ここ変な匂いがする」と。

次の瞬間だった。ちょうど母娘の前に並んでいた青年が、線路に身を投げたのは。

ホームは騒然となる。青年は一命をとりとめたが、母親はそれ以降、娘が変な匂いがすると言う場所からは直ちに離れるようになった。

人が行き交う交差点、緑豊かな公園、オフィスビルや学生街。光輝く街東京は、どこもかしこも「その匂い」に満ちている。

熟練の整体師や医師の中には、嗅診といって匂いで病名を診断したり、人の体のどこの部位が弱っているかを嗅ぎ分けられる者もいると聞く。

とはいえ、日常生活を送る上では邪魔な能力だ。意識しないよう、感じないようにして、塔子は生きてきた。

ふたたび「その匂い」の存在を強く感じたのは、山中修也という47歳の男に会った時だ。




友人の堀あずみに連れられ参加した、資産形成セミナー。そのゲストスピーカーとして登壇していたのが彼だ。

「いいですか。お金のために働くのではなく、お金を自分のために働かせる。この視点に気づくかどうかで、人生は大きく変わります」

家業を継ぎ、一代で上場企業に仕立て上げた名経営者。壇上の彼はいかにも成功者然としたオーラをまとっていたが、塔子の嗅覚が探り当てたのは全く違う一面だった。

―この人、生きているのが辛いのかな…?

セミナー後の懇親会で話しかけると、若く美しい塔子を見て彼は分かりやすく相好を崩した。

気に入った女性にはいつもそうしているのだろう、自然な流れで食事の約束を取りつけると、47歳の経営者は別れ際にこう告げた。

「塔子さんは本当にすばらしいですね。おれと結婚すべきですよ、きみは」

お言葉がすぎますよ、と秘書の女性にたしなめられながら、彼は豪快な笑い声をあげて去って行った。

「チャラ〜い!なんか、いかにもイケイケで肉食系の経営者って感じだよね」

友人のあずみは眉をひそめていたが、塔子が彼の瞳の奥に感じたのはやはり真逆の印象だった。

―本当に女好きな人が、あんな目をするかしら

事実、その通りだった。

2回目の食事の後に告げられた「うちで軽く飲み直さないか」という、次へ進む男女の定型文のような一言。

しかし彼は本当に「軽く飲み直した」だけで、3回目の時も、4回目の時も、塔子に触れようとはしなかった。


なぜ彼は塔子を抱かなかったのか。「愛のない」結婚の理由とは?


なぜ、彼女は「愛していなかった」のか


塔子にとって恋愛とは、執着し、期待と失望をくり返し、自分を見失い、醜くなることに他ならなかった。

それを教えてくれたのは、23歳の時に出会った古賀佳文という男だ。

それまでも、恋愛の真似事は何度かあった。食事やデートを重ねて、お互いに好意を確認し合うような。

だが、古賀との出会いは突然遭遇した嵐のようなものだった。好きかどうか考える隙もなく、ストンと穴に堕ちるように、気づけば心を支配されていた。

古賀といるときの自分は美しくなかった、と塔子は思う。酒に酔ってはよく泣き、日々の最優先事項は好きな男に抱かれることだった。

そして、ボロボロの失恋と、堀あずみの献身的なヘルプによる再びの恋愛の真似事をいくつか経て、塔子は気づいてしまった。

―私は、恋愛が苦手なのね

地図を読むのが苦手な人や楽器の演奏が苦手な人がいるように、人を愛するのが苦手な女、それが自分だと。




「塔子さん、おれは二度と子どもをつくる気はない。従って、その可能性があるようなことをきみとする気もないし、更に言えばきみを好きかどうかも…まだよく分からない」

山中修也からそう告げられた時、塔子は心から、本当に心からにっこりほほ笑んでこう答えた。

よかった。私もそのつもりです、と。

何度断られても懲りずにプロポーズし続けられたのも、そもそも「結婚しよう」などと自分から言えたのも、彼にまったく恋をしていないから。

恋い焦がれる男の前では、好かれたい気持ちが勝ってそんな大胆なことはできない。

でも塔子はどうしても彼と結婚したかった。

彼の側で、その全身から漂う「死の匂い」を取りのぞきたい。きっとこれは、もう二度と恋愛はしないと決めた自分の、ささやかな使命だと―



「きみと結婚する。生涯最後の大博打だな」

彼からそう告げられた時、塔子は思った。
嫌な男だ。博打に負けても失うものなどないくせに。

娘の七海の存在や、元妻への意趣返しなど、など、彼の中でもさまざまな要素がせめぎ合い、総合的にこの投資を「買い」と判断したのだろう。

実際、25歳の美女との結婚は、全盛期の勢いを失いつつあった山中修也の評判を少なからず押し上げることになる。誰もが複雑な表情を浮かべてこう言った。

―いやあ、さすがですね

本当に嫌な男だ。
計算高くて、自分勝手で、見栄っぱりで。

ともかく、プロポーズはようやく5回目に受諾され、塔子が山中の部屋に越してくる形で結婚生活がスタートした。

恋愛と子作りを前提としない、世間的に見ればたいそう奇妙な結婚生活が。



私たちの関係はなんだったのだろう。

恋人、ではない。
親子、ともちがう。
師弟、という一面もあるが全てではない。

共犯者。

たぶん、この言葉がいちばんしっくりくる。
彼の娘の恋人を誘惑していた時も、塔子の頭にあったのは山中と秘密を共有しているという喜びだった。



「おれは長生きしないよ。したくもない」

それが口癖で、死への時間を早回しするかのように自身の健康に無頓着だった山中だったが、塔子との暮らしはある変化をもたらした。

調香師は嗅覚が命。化学調味料や喫煙、飲酒はNG。風邪もひけないので栄養バランスのとれた食事が重要。

そんな“塔子ルール”に渋々付き合っているうちに、少しずつ体と心が健康を取り戻し始めたのだ。塔子が毎朝つくるグリーンスムージーを職場に持参する姿も見られるようになった。

実はすべての調香師がここまでストイックな生活を送る必要はない。でもそれは秘密だ。

一緒に暮らし始めて4年がすぎた頃、「死の匂い」はすっかり消え失せていた。

そのわずか数週間後だった。彼、山中修也が職場で倒れ、意識を失ったと連絡を受けたのは。


塔子が出した答えとは。あなたはこれを「愛」と呼べるか…?


なぜ、彼女は涙を見せなかったのか


雨はまだしばらく止みそうにない。

塔子は窓からの景色がよく見える革のソファにそっと体を沈めた。そこは、山中の定位置とも呼べる場所だった。

主を失ってそろそろ半年が経とうとしているソファの背もたれからは、まだかすかに彼の匂いがする。

人間の体臭は120余りの物質のバランスで構成されているという。この匂いを覚えておけば、いつか、彼の存在を再現できるだろうか。

視界の隅には積み重なったダンボール。足元に転がっているのは、グローブトロッターのトランクが2つ。

塔子は今日、この部屋を出ていくのだ。



パリ支社の香料研究部門で1人欠員が出たらしい。

耳にしたのは偶然だったが、そこからの行動は早かった。上司に掛け合い、書類を揃え、すでにパリ支社にいる先輩研究員を抱き込んで、塔子は1年駐在の切符を手に入れた。

―遺産を手に入れたら、さっさと家を出る女

自分をこう呼ぶ人もいるだろう。

半分正解で、半分間違いだ。さっさと家を出たかったのはその通り。でもその理由は、この場所に居られないからだ。

この部屋はあまりにも、彼の気配に満ちているから。




「愛してるよ、塔子」
「ありがとう」

1年ほど前からだろうか、こんな言葉を交わすようになった。天気のいい休日の朝や、ひどく酔って帰ってきた夜、タイミングはまったく読めなかったが、そう言うと彼は満足そうに、分厚い手のひらで塔子の頭をポンポンと撫でたものだ。



その手のひらがすっかり血の気を失い、硬く冷たくなった様子を見ても、ふしぎと塔子の目から涙はこぼれなかった。

51歳の男とは思えないほど安らかで、子どものような死に顔。「あまり苦しまれることもなく」と担当の医師は言っていた。

死は、やさしく彼のことを包み込んでくれただろうか。

かっこ悪いところを人に見られるのを嫌う彼のことだ、「バリバリの現役経営者」であるうちに惜しまれてこの世を去れたことを、密かに、してやったりと思っているに違いない。

だから、塔子はまったく悲しくはないのだ。



―愛していなかったし、悲しくもない

そのことを正直に告げた時、あの保険調査員…小林さんと言ったっけ、はリスのように大きな目を瞬かせていた。

かわいらしい人だった。喜怒哀楽がすべて顔に出るような、感情のままに突っ走れるような、自分とは真逆のタイプだ。なぜか、彼女とはまたどこかで会えるような気がする。

フライトは13時半、そろそろ出る時間だ。

塔子は立ち上がると、最後にもう一度、革のソファから立ちのぼる懐かしい匂いを吸いこんだ。

さようなら、私の夫。

22歳年上の資産家で、敏腕経営者。

不器用で、心配性で、気が小さくて、実の娘に対してすら、愛を表現する術を知らなかった人。

私、実はあなたのことを…

「ありがとう」

がらんとした部屋に、塔子の靴音が響く。

―愛してるよ、塔子

どこからか、声が聞こえたような気がした。

Fin-