「ワン公(王貞治)は冷たい。人間じゃない」巨人有名選手が「世界の王」を罵倒…「衝撃音声」の中身

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プロ野球史上最大のミステリー「KKドラフト」から41年、いま初めて明らかになる物語――。あのとき、球界に渦巻く虚々実々に翻弄されたのは桑田真澄と清原和博だけではなかった。脚光を浴びた2人の周縁で、誰が動き、誰の運命が書き換えられたのか。本当の主役は誰だったのか。  

連載『1985 英雄たちのドラフト』

第8回「王の孤独」(後編)

【前編記事を読む】「巨人淡口―日ハム木田」の大型トレードが白紙になった理由…王貞治が「壊した」、舞台裏での出来事

厳重注意と罰金200万円

1984年11月22日発売『週刊文春』(1984年11月29日号)に次の記事が載った。

「巨人軍中畑が王監督を『ワン公』と呼んで罵倒した過激テープ」──である。

発端は84年7月中旬、中畑清がある雑誌の企画で有名スポーツ選手と対談を行ったことに起因する。対談終了後、酒の勢いもあって喋り続けた中畑は次のように口を滑らせたという。

「ワン公なんか選手の気持ちがわかってない。ワン公は冷たい、人間じゃない。自分はスーパースターだったから、選手は何でもできると思ってる。だけど、オレたちは何でもできるわけじゃない。(中略)ワン公はね、オレがホームランを打ったとき、“キヨシ、よく打てたな”というような言い方をした。おまえが打つなんて珍しいなあ、とでも言いたげだった。そんな言い方ってあるかい」(同)

「ワン公」とは監督の王貞治を指し、「ワンちゃん」というニックネームを揶揄した符牒であることは説明するまでもなかろう。

本来ならこの手の発言は明るみにならないものだが、週刊文春の当該記事を追うと、有名スポーツ選手との対談終了後も録音用のテープレコーダーが回っていたとある。おそらく、同席した編集者やライターは意図して録音を続けたと思われるが、最初から漏洩させるつもりだったかどうかはわからない。彼らをかばうわけではないが、雑談に移行後も録音用のレコーダーを回し続けるのはさほど珍しいことではないからだ。

問題なのは、何者かがこの音源を週刊文春の編集部に持ち込み、相応の値段で売ったことである。常識的に考えたら同席した編集者かライターということになろうが、まったく別人の手に渡った可能性も否めない。いずれにしても「親しき仲にもスキャンダル」を標榜する週刊文春らしい顛末と言っていい。

当然ながらこれは大問題となった。このとき中1だった筆者は学校帰りに書店に急ぎ、すぐさま週刊文春を貪り読んだ。巨人軍のチームリーダーである中畑清が、世界のホームラン王である監督の王貞治を「ワン公」と侮蔑的に呼んでいたのだから只事ではない。巨人ファンなら中学生でなくても衝撃は大きかったに違いなく「チームがこんな状態なら、そりゃ優勝なんか出来ないはずだ」とさえ思った。

報道を受けて巨人球団は中畑に厳重注意、併せて罰金200万円を課した。結果的に発言を事実と認める形となったが、早々に幕引きを図ったようにも見える。

気になるのは一方の当事者である王貞治の対応である。この件から4年後、彼が巨人軍監督を退任した直後の1989年1月に刊行された『背番号1が泣いている 苦しみつづけた王貞治の日々』(ブックマン社)なる本によると、このとき王は報道陣に対し「本当のことかどうかわからないし、誰だって酒が入っていれば上司の批評を口にしたがるものだろう」(同)と発言の主である中畑をかばい、罰金200万円の徴収さえ否定的だったとある。

長嶋派のゴルフコンペ

記事は《いかにも王らしい人格者としての考え方ではある》(同)としながらも《不平分子をその場で切り捨ててしまうほどの非情さも必要ではなかったか》(同)と追及してもいる。

「王さんって人はいつどういう場面においても本音を出さない。絶対に出さない。徹底していました。だから自分がどう思っていようと強く主張しないし、その後の行動にも出さない。今にして思うとそれは、中国人である彼のお父さんの厳しい教えだったと思うんです。『日本人とうまくやっていくために』ということなのでしょう」(当時、サンケイスポーツの巨人担当記者だった清水満)

両者のしこりは消えなかったはずだが、日本テレビ系列のワイドショーが発言を採り上げることは一切なく、何事もなかったかのように事態は収束した。

そして、1985年を迎えるのである。

1985年1月10日、習志野カントリーで、篠塚利夫の首位打者獲得を祝う記念ゴルフコンペが行われた。発起人は同期入団の中畑清で、江川卓、原辰徳、定岡正二、河埜和正、松本匡史など巨人軍の主力選手29人が集まった。

そこに姿を見せたのが元監督である長嶋茂雄だった。その様子を『日刊スポーツ』(1985年1月11日付)は「長島派が大集合」という大きな見出しを付けて伝える。

篠塚夫妻、中畑清と18番をホールアウトした長嶋茂雄が「もうハーフ行ってみたい」と言うと愛弟子とも言うべき中畑が「監督、行きましょう、行きましょう」と同調。後の組で回っていた江川卓、定岡正二も「僕らも行きます。やりましょう」と追加プレーに参加した。

中畑が「監督、僕のボールはどこに飛ぶかわかりませんよ」と恩師を笑わせたかと思えば、江川はコースを移動する際に長嶋に駆け寄りヒソヒソ話をするなど、見出しの通り、長嶋茂雄と長嶋門下生の結束の強さを見せつけるようなコンペとなった。

当時の王巨人の主力選手の多くが“長嶋派”で占められていたのは周知のことだが、彼らにとって「監督」とは長嶋茂雄以外いなかったのである。その状況下でペナントレース130試合(当時)の指揮を執らねばならない王貞治の心情は察するに余りある。

この時期、王貞治ほど孤独だった存在はいなかったかもしれない。

【毎週水曜日更新】6月3日配信の第9回に続く

【はじめから読む】「巨人淡口―日ハム木田」の大型トレードが白紙になった理由…王貞治が「壊した」、舞台裏での出来事