織田信長は何をした人? まずは基本プロフィールをチェック

織田信長は何をした人なのか、まずは基本的なプロフィールから確認しましょう。信長の人物像を理解するには、生きた時代や生涯の流れを把握することが重要です。
天文3年(1534)、尾張国(現在の愛知県付近)を治める大名・織田信秀の長男として生まれた織田信長(生誕地は諸説あり)。豊臣秀吉・徳川家康とならんで「戦国の三英傑」のひとりに数えられる人物です。
信長が生きた戦国時代は、全国の大名が争い続けた、非常に不安定な時代。そのような時代に信長は、「天下布武」を掲げ、武力で日本をひとつにまとめることを目指しました。しかし天正10年(1582)6月、家臣の明智光秀に謀反を起こされ、京都の本能寺で亡くなりました。

項目

内容

生年

天文3年(1534)

没年

天正10年(1582)6月2日

出身

尾張国(現・愛知県付近)※生誕地は諸説あり

織田信秀

織田信勝(信行)

時代

戦国時代〜安土桃山時代

別称

戦国の三英傑のひとり

※表は左右にスクロールできます


織田信長の生涯とおもな功績

織田信長の生涯は、尾張の一地方領主から天下統一を目指して駆け抜けた、激動の連続でした。下記の年表をもとに、主要なできごとを順番に詳しく解説します。

時期

できごと

天文3年(1534)

尾張国に生まれる

天文21年(1552)頃

父・信秀の死去により家督を継ぐ

永禄3年(1560)

「桶狭間の戦い」で今川義元を撃破

永禄8年(1565)

尾張を統一

永禄10年(1567)

美濃(稲葉山城)を制圧し「天下布武」の印を使用

永禄11年(1568)

足利義昭を将軍に立てて上洛、義昭が室町幕府第15代将軍に就任

1560年代後半〜1570年代

楽市・楽座と関所政策を推進

元亀元年(1570)

「姉川の戦い」で、徳川家康との連合軍により、浅井長政・朝倉義景の連合軍に勝利

元亀2年(1571)

比叡山焼き討ち

天正元年(1573)

足利義昭を追放・室町幕府を滅亡させる

天正3年(1575)

長篠の戦いで武田軍を撃破

天正4年(1576)

安土城の築城を開始

天正8年(1580)

石山本願寺との戦いに決着

天正10年(1582)

「本能寺の変」により自害

※表は左右にスクロールできます

1534〜1559年|幼少期〜「尾張の大うつけ」とよばれた青年時代

織田信長は天文3年(1534)、尾張国の戦国大名・織田信秀の嫡男として生まれました(生誕地は諸説あり)。若い頃の信長は周囲から「大うつけ(大ばか者)」とよばれていたと伝わっています。天文21年(1552)頃に父が亡くなると家督を継ぎ、一族内の争いや周辺勢力との戦いを制しながら、尾張の支配を少しずつ固めていきました。

1560年|「桶狭間の戦い」で今川義元を撃破

永禄3年(1560)、信長は「桶狭間の戦い」で、東海地方最大の勢力を誇る今川義元を破りました。兵力で大きく劣る状況での勝利は、信長の名を全国に広めるきっかけとなりました。
その後、徳川家康と同盟を結び、永禄8年(1565)には尾張をひとつにまとめることに成功しました。この桶狭間の勝利が、天下統一へと向かう大きな転換点となったとされています。

1567年|美濃を制圧し「天下布武」を掲げる

永禄10年(1567)、信長は隣国・美濃(現在の岐阜県)の斎藤氏を倒し、尾張・美濃の二カ国を手中に収めました。
これを機に「天下布武(てんかふぶ)」の印を使い始めます。天下布武とは「武力で天下をひとつにまとめる」という意味とされていて、信長が天下統一へ向けた強い意志を示したできごとでした。

1568〜1573年|足利義昭を将軍に立てて上洛・室町幕府を滅亡させる

永禄11年(1568)、信長は足利義昭を将軍に立てて京都に入り、義昭は室町幕府の第15代将軍に就任しました。しかし信長と義昭の関係は次第に悪化し、各地の大名が信長に対抗する動きも強まっていきました。
天正元年(1573)、信長は足利義昭を京都から追い出しました。これにより約200年続いた室町幕府は実質的に終わりを迎え、信長が畿内の実権を握ることとなりました。

1560年代後半〜1570年代|楽市・楽座と関所政策

信長は支配地域を広げるにつれて、各地に楽市令を出しました。当時の商業は「座」とよばれる特定の商人集団が独占していて、自由な売買が難しい状況でした。楽市・楽座はこうした制限をなくし、誰でも自由に商売できる環境を整えようとした政策です。
また、通行のたびに税を取る関所をなくす取り組みも進め、人や物の行き来をスムーズにしようとしたとされています。ただし、この取り組みはすべての地域に及んだわけではなく、不徹底な面もあったと評されることがあります。

1571〜1574年|比叡山焼き討ちと一向一揆の制圧

元亀2年(1571)、信長は「比叡山延暦寺(ひえいざんえんりゃくじ)」を焼き討ちにしました。延暦寺が敵対勢力と手を結んでいたことが背景にあるとされています。
また、各地で起きた一向一揆(浄土真宗の信者による武装蜂起)に対しても徹底的な鎮圧を行いました。当時の寺社勢力は軍事力・経済力ともに強大であり、信長はこれらを排除することで支配を強化しようとしたとされています。

1575年|「長篠の戦い」で鉄砲を活用し武田軍を撃破

天正3年(1575)、信長は「長篠(ながしの)の戦い」で武田勝頼の軍勢を破りました。この戦いでは馬防柵や土塁・河川を活用した防御陣の構築、さらに大量の鉄砲の投入など、複数の要因が重なって勝利につながったとされています。
なお、かつて定説とされた「鉄砲三段撃ち」については、一次史料に記述がなく、近年の研究では実在が疑わしいとされています。

1576年|「安土城」の築城開始

天正4年(1576)、信長は琵琶湖畔の安土(現在の滋賀県)に城の築城を始めました。「安土城」は天下統一に向けた政治・軍事の拠点として位置づけられ、信長の力を示す象徴となりました。天正7年(1579)には天守が完成し、信長はここに移り住んでいます。

1580年|「石山本願寺」との戦いに決着

信長は元亀元年(1570)から「石山本願寺」(現在の大阪)と長年にわたる戦いを続けていました。天正8年(1580)、ついに和睦が成立してこの戦いに決着をつけました。約10年間続いたこの戦いが終わったことで、信長の大きな敵対勢力のひとつがなくなり、統一に向けた歩みが大きく前進しました。

1582年|「本能寺の変」による最期

天正10年(1582)、信長は武田氏を滅ぼし、天下統一はほぼ目前に迫っていたとされています。しかし同年6月2日、重臣の明智光秀が謀反を起こし、京都の「本能寺」で信長は亡くなりました。これが「本能寺の変」です。光秀がなぜ謀反を起こしたかについては定説がなく、現在も複数の説が議論されています。「是非に及ばず」は信長最後の言葉として知られています。

織田信長はどんな性格?

信長の性格については複数の史料に記述が残っていますが、いずれも一定の立場から書かれたものであり、実像については現在も研究者の間で議論が続いています。史料から読み取れる主な側面は下記の4つです。
●即断即決の行動力と合理的な思考
●能力主義・実力主義を徹底した人材観
●残虐・冷酷と評される一面
●庶民への気配りと優しさの一面
順番に解説します。

即断即決の行動力と合理的な思考

信長は重要な場面でも、自らの判断で素早く動く人物だったと伝わっています。圧倒的に不利な兵力差のなかで今川義元との決戦に踏み切った「桶狭間の戦い」は、そうした行動力を示す代表的なできごととしてよく挙げられます。
また、新しいものを積極的に取り入れる柔軟な姿勢があったとも伝わっていて、鉄砲の大量活用や自由な商売を促す政策など、それまでの慣習にとらわれない判断を繰り返しました。ただし、こうした行動をどう評価するかについては研究者の間でさまざまな見解があります。

能力主義・実力主義を徹底した人材観

信長は、家柄や出身よりも実力を重視して人を評価したと伝わっています。身分の低い出身とされる豊臣秀吉が重用されたことは、その代表例としてよく挙げられます。
一方で、長年仕えた家臣であっても成果を出せなければ厳しく処分したとも伝わっていて、人材への評価は徹底したものだったとされています。ただし、この人材登用のあり方については研究者の間でさまざまな見解があります。

残虐・冷酷と評される一面

信長は、敵対する者や約束を破った者に対して容赦のない対応をとったと伝わっていて、「残虐・冷酷」と評されることがあります。また、一度抱いた反感は長く続く傾向があったとも伝わっています。
こうした行動の背景には戦国時代という厳しい時代状況があり、どう解釈するかは見方によって異なります。

庶民への気配りと優しさの一面

信長には、厳しい一面とは対照的な温かい一面もあったと伝わっています。道端で出会った体の不自由な人に対して、食料や住む場所の手配を周囲に頼んだというエピソードが史料に残っています。
また、身分を問わず分け隔てなく人と接したとする記録も残っていて、信長の人物像は「残虐な武将」という一面だけでは語り切れない、多面的なものだったとされています。

織田信長が日本の歴史に与えた影響

信長は天下統一を果たすことなく亡くなりましたが、その政策や行動は後世の日本に大きな痕跡を残しました。おもな影響は下記の4点です。
●室町幕府の滅亡と、中央集権化への道筋
●「兵農分離」による近世社会の基盤形成
●自由経済の先駆けとなった「楽市楽座」
●豊臣・徳川政権へ引き継がれた統治の仕組み
以下で順番に解説します。

室町幕府の滅亡と、中央集権化への道筋

信長が足利義昭を追い出して室町幕府を実質的に滅ぼしたことで、「将軍という権威に頼らなくても国を治められる」という新しい政権のあり方が示されました。この考え方は豊臣秀吉による全国統一、さらには徳川家康による江戸幕府の成立へとつながったと評価されています。

「兵農分離」による近世社会の基盤形成

戦国時代には、農民が農業と戦闘を兼ねる形態が広く見られました。信長の政権下ではこうした形態を改め、武士と農民の役割を分ける「兵農分離(へいのうぶんり)」の動きが進んだとされています。
この流れは豊臣秀吉が農民から武器を取り上げた「刀狩令」などを経て制度として確立し、武士・農民・町人という身分制度が整っていく近世社会の基盤となったとされています。

自由経済の先駆けとなった「楽市楽座」

信長が布いた「楽市・楽座」令の考え方は、豊臣秀吉の政策にも引き継がれ、日本の商業発展のひとつの契機となったと評価されることがあります。

豊臣・徳川政権へ引き継がれた統治の仕組み

信長が畿内を中心に築いた中央政権の枠組みは、豊臣秀吉へと引き継がれ、全国統一の基盤となりました。信長・豊臣・徳川という流れは、長く続いた戦国時代の戦乱を終わらせ、約260年続く江戸時代の安定した社会の礎をつくったとされています。

織田信長に関するよくある疑問

織田信長について、よく挙がる疑問をまとめました。

織田信長は天下統一を果たした?

果たしていません。天正10年(1582)、天下統一目前に家臣の明智光秀の謀反により亡くなりました。その後を継いだ豊臣秀吉が統一を成し遂げています。

なぜ本能寺で討たれたの?

家臣の明智光秀が謀反を起こし、京都の「本能寺」に滞在中の信長を襲撃したためです。光秀がなぜ謀反を起こしたかについては定説がなく、現在も複数の説が議論されています。

豊臣秀吉・徳川家康との役割の違いは?

三者はともに「戦国の三英傑」とよばれますが、信長は天下統一の道筋を切り開いた人物、秀吉はそれを完成させた人物、家康は約260年続く江戸幕府を開いた人物として、それぞれ異なる役割を担ったとされています。

まとめ|織田信長は何をした人か

織田信長とは、戦国時代に「天下布武」を掲げ、日本をひとつにまとめることを目指した武将です。「桶狭間の戦い」での勝利を機に勢力を拡大し、室町幕府を滅ぼして畿内の実権を握りました。「楽市・楽座」による経済改革や鉄砲の活用など、それまでの常識にとらわれない行動でも知られています。
天正10年(1582)、天下統一目前に「本能寺の変」で亡くなりましたが、信長が切り開いた道は豊臣秀吉・徳川家康へと受け継がれ、その後の日本の歴史に大きな影響を与えたとされています。


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