「細い血がぴゅーっと飛び、指が落ちた」“伝説のヤクザ”が映画撮影→小指1本30万円で“出演者が本当に指を切断”…監督になった安藤昇の異常すぎる撮影方法〉から続く

“伝説のヤクザ”として名を馳せ、俳優としても強烈な存在感を放った安藤昇。その出演作の中でも異色といえるのが、田中登監督による『安藤昇のわが逃亡とSEXの記録』である。実際の事件を下敷きにしながら、これまでの男社会中心のヤクザ映画とは一線を画し、女性との関係に光を当てた作品だった。

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 逃亡の日々を軸に、多くの女性たちとの濃密な関係が描かれた本作。そこには、安藤昇という男の内面や価値観が色濃くにじみ出ている――。大下英治氏の著書『安藤組 修羅たちの戦い』(宝島SUGOI文庫)より、その実像をひもとく。(全2回の2回目/1回目につづく)


昭和のヤクザ史に名を刻んだ“カリスマヤクザ”安藤昇 ©文藝春秋

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女性たちとの激しい絡みが描かれたロマンポルノ作品

 安藤昇主演の映画作品は、実質的には昭和51年10月1日公開の、いわゆるロマンポルノの巨匠である田中登監督『安藤昇のわが逃亡とSEXの記録』が最後になる。映画は、タイトルどおり、横井英樹襲撃事件発生から逮捕までの304日間の物語である。

 しかし、それまでの安藤主演のヤクザ映画は、男だらけの世界である。が、この映画は、それらとは異なり、安藤の女性関係にスポットが当たっている。映画は、やはり横井英樹襲撃事件をモチーフにした物語である。

 女優・萩野まゆみ演じる山辺泰子、つまり“ヤッコ”は、実際は、のち作家、作詩家、銀座クラブのママとなる山口洋子のことである。安藤と女優の萩野まゆみの若い肢体との激しい絡み合いは、男心を釘付けにしてしまう。

 さて、次に行くのは、子持ちの女性、熟した身体がそそる、女優・中島葵演じる山岸旗江である。実在の山岸旗江は、港区赤坂丹後町にいた岸久枝であろう。映画に登場する男の子は、実際にもいた安藤の実子である。

 妖艶で大人の女である山岸旗江は、安藤の体にむしゃぶりつき、声を漏らす。

「あったかい……」

 安藤の手を自分の陰部に押しつけ、ますます燃えていくのであった。翌日、山岸旗江は、安藤に訊く。

「どう、初めて追われる感想は?」

 安藤は答える。

「追われるっていうのは、何かから逃げていることをいうんだ。おれのは、逃げてるんじゃねえ。何かに向かって逃げてるんだ」

 逃走時の安藤の心境が、垣間見えるセリフである。

護送されるパトカーのなかで射精するラストシーン

 次に安藤が向かった先は、カタギの友人の田所有二の家。

 そこで、黄色いワンピースの女性、田代文子とともにしばらく暮らすのである。実在の田代文子は、日劇ダンシングチーム10期生の田村秀子であろう。

 女性ダンサーの身体は、締まるところは締まり、出るところは出るという最高のプロポーションである。その魅力を惜しみなく安藤にさらけ出して、安藤をベッドへと誘う。

 田中登監督演出の、椅子で上手に接合部を隠しているのが、なんとも心憎い。逃亡先の最後は、葉山の貸し別荘である。安藤は、葉山の有閑マダムを連れ込み、プールサイドでSEXし始める。そこに警官が襲撃。SEXは中断される。

 安藤は、素直に逮捕され、護送されるパトカーのなかでオナニーをする。警官たちの制止を振り切り、射精してしまう。白濁液が、フロントガラスに飛び散るシーンで映画が終わる。

 タイトルのとおり、映画では多くのベッドシーンがある。が、演じる安藤には、照れや恥ずかしさはなく、むしろ楽しかったという。当時、その種の映画では男女とも前貼りをするものだったが、安藤は面倒臭がってつけなかった。

 安藤昇が俳優として第一線から身を引いたのは、やはり昭和51年がひとつの分岐点である。振り返ってみると、安藤出演作品は、扱う題材がヤクザであることが多かった。が、実際の俳優やスタッフはカタギである。映画撮影で本物のヤクザとの揉めごとはなかったという。

 昭和40年代半ばから50年代にかけて東映京都撮影所製作でロケーションともなれば、3代目山口組時代の若頭の山本健一が面倒を見てくれたという。安藤も、山本若頭とはしばしば一緒に飲む仲ではあった。

山本健一という男…鶴田浩二襲撃事件で逮捕歴も

 山本健一は、大正14年3月5日、兵庫県神戸市に生まれた。昭和24年に大阪電機学校(現・清風高等学校)を卒業した。横須賀海軍工廠に務めたが、召集され昭和20年1月に鳥取の部隊に入隊。終戦後、神戸に戻ったが家族の消息も摑めず、自暴自棄となって無頼の生活に入っていった。

 昭和26年ころ、3代目山口組若頭の安原政雄と出会い、安原の若衆となって山口組に傘下入りした。昭和28年1月には、有名な鶴田浩二襲撃事件に参加し、逮捕される。

 なお、この事件は、3代目山口組組長の田岡一雄が、かわいがっていた美空ひばりと鶴田浩二のジョイント公演を提案して断られたことが発端といわれている。昭和32年、田岡一雄から盃を受け、直参に昇格した。昭和36年に山健組を結成。

 昭和38年、田岡の提案で設けられた執行部体制の下で若頭補佐役に就く。昭和43年の新体制で再び若頭補佐に就任。昭和46年7月、当時若頭の梶原清晴が大隅諸島の硫黄島で磯釣り中に溺死すると、その年の9月に後任若頭に就任した。「イケイケの山健」の異名を持ち、武闘派としても知られる。

安藤が俳優をやめた理由

 さて、安藤が俳優をやめた理由は、俳優をやっていても面白くなくなってきたためだという。もちろん、東映に入ったころは映画の世界も面白かった。名優と呼ばれる俳優は、50歳から年輪を刻むともいう。が、安藤は、そんなことにはそもそも関心がなかった。

 やめるには、こんな出来事も影響したという。

 昭和48年10月27日公開の映画『現代任侠史』の撮影のときだった。銀座で銃撃のロケーションがあった。リハーサルで拳銃を撃つシーンだった。

 リハーサルゆえ、口で「バーン、バーン」と言わなければならなかった。銀座といえば、知り合いがたくさんいる。場所柄、安藤のよく知る女性たちも撮影を見ていた。

〈こんな連中を前に、50近い、いい歳の大人がいくら撮影のためとはいえ、口で「バーン、バーン」なんて言えるか。いくら何でも恥ずかしいし、格好悪い……〉

 それだけは勘弁してほしかった。

(大下 英治/Webオリジナル(外部転載))