万物の創造主に向けて吐き出された「最後の吐息」…中世ヨーロッパ世界の頂点に君臨したオットー1世が迎えた「唐突な最期」

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ヨーロッパ随一の強国は、ひとりの男によって作り上げられた。その名は神聖ローマ帝国初代皇帝・オットー1世。欧州を席巻した苛烈な王の生涯は、戦いの軌跡だった。身内からの反乱にイタリア遠征、そして強敵ハンガリーとの戦争。彼はいかにして数多の勢力を下し、その地位を固めていったのか。

オットー1世の生涯を辿れば、中世ヨーロッパが見えてくる。ドイツの源流・神聖ローマ帝国の歴史を綴った『ドイツ誕生 神聖ローマ帝国初代皇帝オットー1世』から一部抜粋・再編集してお届けする。

『ドイツ誕生 神聖ローマ帝国初代皇帝オットー1世』連載第82回

『「ロシア」や「イスラーム」、「教皇の使者」までもが謁見に…中世ヨーロッパ世界を掌握したオットー1世の「圧倒的な栄光」』より続く。

オットー大帝の急死

だが、権力の絶頂に立ったときにこそ、悲劇は訪れるものだ。

その宮廷会議からわずか2ヵ月後。オットーは病に襲われ命を落とした。973年5月7日のことだった。

以下、ヴィドゥキントの『ザクセン人の事績』に沿って、オットーのあまりにも唐突に過ぎる死の様子を見てみよう。

この日、オットーは父ハインリヒ1世の最期の地メムレーベン宮殿を訪れていた。朝の賛歌に参列した後、休息をとっていたという。しばらくしてからミサが行われ、オットーはいつものように貧者に喜捨を行う。そして再び休息をとった後、昼食の時間になると上機嫌で起き上がりテーブルについた。午後には政務をこなし、晩の奉神礼に臨む。異変が起きたのは、その瞬間だった。福音書が歌われている最中に、オットーはにわかに発熱と疲労を感じ意識を失う。彼の近くにいた諸侯がこれに気付き、オットーを椅子に腰かけさせた。だが彼の容態は回復することなく、ついには最後の吐息を万物の創造主に向けて吐き出した。息を引き取ったオットーは寝室に運ばれ、深夜だったにもかかわらず、その死が民衆に知らされたのである。

オットーの遺体

その後、オットーの遺体はマクデブルクに移送され、マクデブルク大司教座聖堂に彼の最初の妃エドギタの遺体と並んで安置された。棺は大理石の板に覆われ、そこには「この大理石の下には悲しみの3つの理由が閉じ込められている。国王、教会の誇り、祖国の最高の栄誉が」という碑文が彫り付けられた。

それまでオットーが築き上げてきた功績を思えば、あまりに突然の幕切れであった。

享年60歳。東フランク王在位37年、皇帝在位11年の生涯であった。

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