大林監督の生家の庭に立つ千茱萸さん(左から2人目)ら。文化サロンとしての再生を目指す(3月2日、広島県尾道市で)

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 映画「時をかける少女」などで知られる広島県尾道市出身の大林宣彦監督(1938〜2020年)が18歳まで過ごした生家を、文化サロンに再生する計画が進んでいる。

 映写機やカメラに囲まれて過ごした映画監督としての「原点」と言える場所で、遺作のロケ地にもなった。2027年度中のオープンを目指す。(福山支局 佐藤行彦)

 生家は、「坂の街」を象徴するような市中心部の斜面地に立つ築100年超の木造2階建て。大林家は代々続く医者の家系で、豪商の別荘を大林監督の父母が譲り受けたという。

 監督の両親が他界し、約20年前からは空き家になっていた。監督が20年に82歳で死去した後、長女の千茱萸(ちぐみ)さん(62)(東京都)が遺品整理の一環で片付けに着手。尾道で映画イベントを企画する団体や空き家再生を手がけるNPO法人のメンバーも加わり、室内の大掃除や庭に生い茂る草木の伐採を行ってきた。

 千茱萸さんは、この家を「父が監督としての感性を育んだ原点」と語る。

 〈ぼくの家には大きな納戸があって(中略)蓄音器とか幻灯機、不思議な時計やオルゴールが入っていて、その納戸の中にもぐり込んで時を過ごすのが、ぼくにとってのいちばんの楽しみでした〉(大林宣彦著「ぼくの映画人生」)

 千茱萸さんによると、かつては治療費の代わりに現物を納める人もおり、生家には手術のお礼として、大林監督の父に贈られた映写機やカメラなどがあった。監督は、幼少期からおもちゃ代わりに使っていたという。

 慶応大医学部を受験したが、試験途中で医者にはならないと決め、退席。映画監督を目指し、18歳で生家を離れて上京した。

遺作では広間で撮影

 離れた後も、監督にとって特別な場所だった。

 CMディレクターから転身後、初めて手がけた商業映画「HOUSE ハウス」(1977年)。女子高校生が家具などに次々と襲われるホラー・ファンタジーが生み出されたヒントは尾道の生家にあった。幼少期からたびたび訪れていた千茱萸さんが、生家の三面鏡や古井戸を思い浮かべ、家にある物が人を襲うという設定を示すと、監督がこれを気に入って取り入れたのだという。

 1980年代に尾道三部作のロケを故郷で行った際には、生家に制作陣を招き、広間で一緒にご飯を食べるなどしていたという。遺作となった「海辺の映画館―キネマの玉手箱」(2020年)では、この家の広間でチャンバラシーンなどが撮影された。

「好きじゃない」と話していたが…

 千茱萸さんは、古里をこよなく愛した父を思い、生家をサロンとして活用しようと決めた。父の映画制作にまつわる資料や、家族ゆかりの品を並べた展示室のほか、バーやカフェを中心とした交流スペースを設ける計画だ。庭の整備は、尾道市出身で05年の愛知万博の景観デザインを担当した戸田芳樹さん(78)が無償で手がける。

 監督は生前、「過去をたたえる記念館は後ろ向きなので好きじゃない」と話していたという。千茱萸さんは「監督が残したものを活用しながら、たくさんの人が憩って語り合う未来に開かれた場になれば、喜んでくれると思う」と話した。

 再生計画に協力する一般社団法人「尾道フィルムラボ」の北村真悟代表理事(49)は「大林監督は『映画のまち』のイメージを作り上げた、尾道になくてはならない人。尾道の文化を次の世代につなぐ活動ができるのはうれしい」と語った。

 老朽化した建物は改修が必要で、5000万円を目標に支援金を募集している。応募方法は「尾道フィルムラボ」のSNSなどで案内している。

 ◆大林宣彦監督=1960〜70年代、米俳優チャールズ・ブロンソンを起用した男性用化粧品「マンダム」のCMなどを制作し、注目を集めた。映画では「転校生」(1982年)、「時をかける少女」(83年)、「さびしんぼう」(85年)の尾道を舞台とした青春映画「尾道三部作」や、アイドルを起用した作品で一世を風靡(ふうび)。晩年は反戦を訴える作品を多く手がけた。