◆「え、パパ死んじゃうの?」父が白血病と知ったときの衝撃

ーー娘の七海さんは、最初から松伸に入るつもりだったんですか?

七海:そんな気持ちは全然なかったんです。実際、大学卒業後は友人の誘いで、発達障害を持った児童たちのための学童保育である「放課後等デイサービス」の仕事をしていました。大学では心理学専攻で、もともとカウンセラーとか、心理職になりたかった。院に進みたい気持ちもありましたが、改めて自分の素質や当時の家庭の状況を考えたところ、難しいなと断念していました。

ーーその当時から、お父様が白血病で入院されていたんですよね。

七海:最初に父の病気を知ったときは20歳で、「え、パパ死んじゃうの?」と混乱しました。当時20歳だったんですが、大学時代の友達がいっしょに飲んでくれて、朝まで泣きながら話す私を受け止めてくれました。でもそれがなかったら、本当に心の置きどころがない状態でした。しかも実は、同時におばあちゃんの病気も進行していて……。正直、卒業することが優先で「家族を支えなきゃ」と思える余裕はなかったです。マイナスの感情を持ちたくなかったので、1日が何事も起きずに終わればそれでよいという感じでした。

ーー一度は違う畑で働いていたのが、そこからどうしてこの会社に?

七海:直接的なきっかけは、父の死です。でももともとなんとなく、「30歳くらいで松伸に入るんだろう」とぼんやりと思っていました。20歳で父の病気がわかり、2年半の闘病生活を経て亡くなった。まるで人生設計のテンポが、10年早まった感じ。それが「タイミングだな」と腑に落ちた瞬間があり、入社を決めました。

美幸:母としては、娘の行きたい道に自由に進んでほしいという気持ちがありました。一方で松伸の人間として、就職先の選択肢にこの会社が入っていてほしいという願いがあったので、彼女が入社を決めたときはうれしかったですね。

七海:この会社の面接時の志望動機はめちゃくちゃ困りました(笑)。ただ、「ずっと松伸に守られてきた」っていう感覚はあって。幼少期から職人さんたちのことをよく見知っていてみんなお兄ちゃん、お父さん、おじいちゃんみたいな感じなんです。

コロナ禍で国じゅうが苦しんでいるときも、生活水準は変わらなかった。それって両親だけではなく会社の人たちのおかげだなって。それなら恩返しに「みんなを守りたいかも」って思ったんです。

◆「印象に残らなかったら負け」(娘)vs「これが若い子の感覚か」(母)

美幸さんが副社長になったのち、まず宣言したのは「噂話やいじめは絶対に許さない」ということだった。それまで不規則だった休みも整え、長年働いた職人に報いる制度も整備した。だが、制度以上に変わったのは“空気”だという。

ーー美幸さんが会社のトップになってから、会社にはどんな変化があったのでしょうか?

美幸:まず、副社長になったときの第一声で、社員の皆さんに「噂話やいじめは私が絶対に許しません」と宣言しました。それから、会長になってからは、休みが不規則だった建設業界ではまだ珍しい「4週6休制」を導入して福利厚生を整えました。そして、これは亡き夫と前から構想していたのですが、勤続30年以上1000万円の定年退職金制度の導入。これは、職人さんへの感謝の気持ちと老後も豊かに暮らしてほしいという思いもこもっています。

ーー七海さんから見て、社内の雰囲気はどうですか?

七海:会社の皆さんに面倒みてもらいながら楽しく働いています。礼節さえわきまえていれば、社風もめちゃくちゃ自由! すっぴんで、おさげで出社しても、ネイルをしてても誰も何も言いません(笑)。正直、前の仕事の方が、髪色とか厳しかったな……。