信越化学工業社長・斉藤恭彦の基本軸強化論「さすが信越、と言われるようなモノづくりを」
汎用樹脂の塩ビ事業に、多くのメーカーが参入、競争によって整理淘汰が進む中で、なぜ、信越化学が生き残り、世界首位の地位を築くことができたのか?
「ええ、その点については、塩ビメーカーの中で、当社ほど利益をあげている所はないということでよく聞かれるんです」
斉藤氏はこう語り、米国での塩ビ事業をここまで成長させることに注力した金川千尋・前会長(故人)を引き合いに、次のように続ける。
「金川も、塩ビという製品で、これだけの利益率を上げていけるのなら、もうスペシャリティだと言っていました。では、どうやっているのかと聞かれるのですけれども、『こうやっています』ともちろん言うわけはありません(笑)。それはわれわれの仕事のやり方の結果であるわけです」
他社が塩ビから撤退する中、信越化学は米国進出を機に、塩ビ強化策に打って出ていった。
原材料を豊富に得られる米国に製造拠点を構えた事は、時代の転換期における一つの大きな決断だったと言えるのか?
「それは間違いないことです」と斉藤氏ははっきり肯定。
「こういう(モノづくりの)仕事というのはやはり、立地に大きく左右されます。これはもう、失敗したから移しますと言っても、そう簡単に引っ越しはできませんから。立地が雌雄を決するという面があるんです」
石油ショックによって原材料価格が高騰した時の決断という面で、『天の時』であり、石油、天然ガス、エチレンなどの原材料が豊富に得られる米国南部に進出したという『地の利』に恵まれたということ。
そして、塩ビ事業に注力し、米国の合弁会社を完全子会社化し、さらなる事業拡大を決断した故金川千尋氏と、現地での33年に渡る勤務を経験した斉藤氏らにつながる『人の和』である。
経営者の"決断の重み"
経営者の決断ということで、斉藤氏が振り返る。
「シンテック社はもちろん金川が始めたわけですが、その当時の信越化学はあまり資金が多くない会社だったので、技術供与を行っていた。つまりライセンスを海外の会社さんに与えることで収益を上げていたんです。信越化学のプロセス(技術)というのは良かったということです」
自分たちが開発し、蓄積してきた技術を売ることによって、利益はあげられるわけだが、それは皮肉にも塩ビ事業の競争相手を作り出すことにもなる。
斉藤氏が入社した頃、技術供与は盛んに行われていた。
同社は当時、国内市場を相手に塩ビ事業を行っていたので、海外メーカーに技術を供与して利益につなげようという考えもあったのであろう。
「正確に言うと、ヨーロッパにも小さい工場を持っていたんです。(全体的には)日本で展開していただけでしたけれども、競争相手をつくっているようなものだから、金川も疑問を持っていたようです」
そうした疑念を抱いていた時に、米国の企業からライセンス供与の話が持ち込まれた。
そこで、金川氏は単純なライセンス供与ではなく、その企業と合弁会社を設立し、その合弁会社に技術を供与することを思いついた。
もっとも、米国で簡単に市場を開拓できる保証もなく、当時の日本企業も多くが二の足を踏む中で、金川氏は決断したのである。以降、シンテック社の成長が始まり、米国市場で躍進を遂げていったという経緯だ。
「金川の発想がなければ、今のシンテックはなかった」と斉藤氏。
時代の転換期、環境の激変期に、他社とは一味違う決断が、今日の信越化学の隆盛を招いたということ。
