信越化学工業社長・斉藤恭彦の基本軸強化論「さすが信越、と言われるようなモノづくりを」
『さすが信越』と 言われる製品を
「『さすが信越』というふうに言っていただけるような製品開発や経営に取り組んでいきたいと思っています」
先述のように、斉藤氏が社長に就任したのは2016年(平成23年)6月。
米国子会社のシンテック社を同社の大きな収益源に育て上げた金川千尋氏(1926ー2022)の後、森俊三氏が社長を務めた(社長在任2010―2016)。その森氏の後を受けて斉藤氏が社長に就任。
日本国内では中堅化学と位置付けられていた信越化学は、金川氏の時代に大躍進を遂げる。森社長時代を経て、日本を代表する化学会社としての地位を固め、グローバル市場での存在感は高い。
何といっても、同社を飛躍させるきっかけとなったのは、塩ビを生産する米子会社シンテック(SHINTECH)である。
シンテックは、1973年(昭和48年)に、米資本との合弁でスタート。折しも第一次石油ショックが起きた年である。
先進国は省資源・省エネルギーへの政策転換を余儀なくされ、世界を取り巻く環境も大きく変わった。
シンテック社設立の際の合弁相手は、米国の塩ビ製パイプ大手メーカー、ロビンテック。信越の"シン"とロビンテックの"テック"を取り、シンテックと命名された。この時の米国進出を決断したのは、当時社長を務めていた小田切新太郎氏(1907ー1997)。
その後、ロ社の経営が傾き、信越化学が100子会社にするのだが、これを強く提言したのが、1975年、49歳で取締役になった金川千尋氏であった。
塩ビでは後発であった信越化学だが、この時の決断がその後の同社の大躍進の礎となる。
『基本に忠実に』の路線が 塩ビ事業の躍進に
塩ビは汎用樹脂で、誰もが参入しやすい分野。第2次世界大戦前の1931年にドイツで開発され、日本での工業化が始まったのは1941年(昭和16年)である。
誕生してから90数年が経つが、この間、塩ビを手掛ける企業の整理淘汰が進んだ。
日本では、旧財閥系化学会社が塩ビ事業に参入していたが、それらはほぼ撤退。逆に、信越化学は塩ビ事業に一大投資を進めていった。この時の経営判断はどういうものであったのか?
「基本に忠実に、という経営路線があったからです」と斉藤氏。
塩ビは汎用品であり、グローバル市場で勝ち抜くには、何よりコスト競争力が求められる。同社が進出したテキサス州は石油、天然ガス、エチレンといった原材料が豊富に産出される土地柄で、原材料価格が高騰する石油ショック時に、同州に進出したことが、同社に有利に働いた。
そして何より、他社と比べて優れた製造技術を同社が確立していたことも勝因の一つに挙げられる。
塩ビ生産では、重合器の内壁に残滓(スケール)が付着する。同社は、それらを取り除き、生産性を上げるノン・スケール技術を独自開発し、量産化に成功していたのである。
こうした一連の塩ビ強化策は、小田切―金川コンビの下で進められた。
何より、生産拠点を米テキサス州やルイジアナ州に置いたという決断が50年後の今日、プラスになっている。当時、大手日本企業は中国に製造拠点を求めた。しかし、同社は中国ではなく、米国を選択。その選択がその後の盛衰を大きく分けた。
斉藤氏が信越化学に入社したのは、シンテック社設立の5年後、1978年。その5年後の1983年にシンテック社勤務を命ぜられ渡米する。その後33年間に及ぶ米国勤務に斉藤氏が思う事とは何か─。
『天の時』、『地の利』 、『人の和』があってこそ…
