偉人と呼ばれる人たちは、山あり谷ありの人生をどのように生き延びたのか。ライターの栗下直也さんは「例えば、現在巨人の2軍監督を務める桑田真澄さんは、20代の頃に多額の借金を抱えたが、愚直に投げ続けることで周囲の評価を180度変えた」という――。(第1回)

※本稿は、栗下直也『偉人の生き延び方』(左右社)の一部を再編集したものです。

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1993年6月、中日―巨人 9回を投げ、中日打線を1点に抑えた桑田=ナゴヤ - 写真=共同通信社

■巨人の若きエースによる「電撃発表」

野球選手は孤独だ。華やかな世界に映るが、何の保障もない。投げられなくなったら、打てなくなったら、怪我をしたらおしまいだ。ごまかしがきかない。彼ら自身がその厳しさを一番自覚している。だからこそ、現役時代から引退後を見据えてサイドビジネスに手を出す者も少なくない。

1980年代、球界を代表した江川卓(当時巨人)は「財テクは趣味」と公言していたし、三冠王を3度獲得した落合博満(当時ロッテ)も多くの不動産を所有していた。彼らの全盛期は日本経済が膨張を続けた時期と重なる。バブルの絶頂期だ。何者でもない会社員ですら、銀行は頼めば融資してくれた。有名野球選手となれば、なおさらだ。

「投げる不動産屋」とバブル期に陰で呼ばれるまでに不動産投資の副業にはまったのが巨人のエース・桑田真澄だ。PL学園高校時代は清原和博とのKKコンビで日本中の話題を独占し、プロ入り後も2年目の昭和62年(1987年)に沢村賞を受賞。登板日漏洩疑惑などダーティーな一面はあったものの、昭和62〜平成2年(87〜90年)まで4年連続で二桁勝利を上げ、球界のエースへの階段を順調に上っていた。

それだけに、平成3年(91年)2月の春季キャンプでの「電撃発表」は衝撃をもって受け止められた。桑田の「破産」が球団幹部から報道陣との懇談の席で発表されたのだ。

■金利だけで年9000万円

借金の総額は13億円。首都圏でマンション、アパートなど11件を購入。買い求めた時期がバブル経済全盛の平成元年(89年)1月から平成2年(90年)4月であったために、バブルの崩壊で不動産を手放そうにも、買値では売却できなかった。

とはいえ、借金は金利だけで年9000万円。土地を売却しなければ、推定年俸7600万円の桑田が金利の支払いさえ不可能なのは小学生でもわかる。

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身動きできなくなった桑田は結局、球団主導で、1年前に購入していた横浜の港北ニュータウンはずれの高級住宅街にあった「7億円豪邸」など本人名義の自宅など5件の不動産、愛車のBMWとクラウンを借金のカタに売却した。それでも3億円の借金が残ったという。

当時の報道では、巨人の武石啓之介代表補佐は「自宅だけはどうしても手放したくないということだったが、借金の実態はそれを許さなかった」と語っている。この自宅は相当なこだわりがあったようで、平成3年(91年)2月22日付の西日本新聞夕刊は下記のように報じている。

■プライバシー配慮ゼロの記事

桑田投手の最大の財産は、昨年三月に購入した横浜市緑区仲町台四丁目の自宅だった。もちろん、自宅といっても並のサラリーマンの「うさぎ小屋」とは雲泥の差がある。港北ニュータウンはずれの高級住宅街。第三京浜の港北インターから車で五分という抜群の立地条件だ。土地は一九〇坪(六二七平方メートル)。

そこに延べ百坪の住宅が建つ。桑田投手が「外国風の家にあこがれていたから各部屋を広くした」と誇るように鉄筋二階建て四部屋だが、一部屋はすべて三〇畳以上。「観音開きの重厚なドア、三角屋根、明かり採りの窓と、教会のイメージでまとめてある」という。家具も好みに合わせてヨーロッパ直輸入の北欧風。四台の防犯カメラが絶えず庭や玄関を監視しデジタル式オートロック、防犯センサーなど防犯面も完ぺきなのだ。

アパートに生まれ育った桑田投手だけに「東京に出てきたときから一戸建てに住むのが夢だった」が口ぐせだった。三〇年ローンとはいえ、夢を果たし、母親と弟と一緒に住み込む七億円豪邸に「一生かかっても自分のものにしたい。そのためにも勝たないとネ」と話したこともあった。

「勝たないとネ」など突っ込みどころ満載というか、時代性を感じる。間取りの詳細まで垂れ流しにされ、プライバシーへの配慮が1ミリも感じられない内容に驚かざるをえない。住宅情報雑誌のインタビューでも、週刊誌やワイドショーでもなく、一般紙の記事でこれだ。

■KKコンビの人間交差点

さらに、驚くべきなのは当時の桑田の年齢だ。21歳。バブルの狂気が世間を狂わせたといえばそれまでだが、高卒数年の者が不動産の運用会社を設立し、13億円の資産(借金)があるのは異常だ。それがあの時代といえばそれまでだが。

桑田は借金騒動で開幕を迎えた平成3年(91年)シーズンこそ16勝を上げるなど各種指標でチームの投手内ではトップとなる成績を残すが、平成4、5年(92、93年)は2年連続して勝利数より負け数が上回る。

投手桑田の限界説が囁かれ始めるが、平成6年(94年)に大車輪の活躍を見せ、シーズンMVPに輝く。最高視聴率67%を記録した「10.8決戦」(日本プロ野球史上初めて「リーグ戦最終戦時の勝率が同率首位で並んだチーム同士の直接対決」という優勝決定戦)でも7回から登板し、胴上げ投手になっている。

桑田は孤高の雰囲気もあってか、実力の割に人気が低い選手だった。それが、怪我や力の衰えなどで成績が振るわなくなるにつれ、生き様が共感を呼び始める。

巨人に見限られてからも、渡米し39歳でメジャーに挑戦する。みっともなさと紙一重の執着を見せ、マイナーリーグでもがきながら、野球を続けた。一匹狼でとっつきにくそうなイメージを抱いていたファンもようやく気づいた。「桑田は野球が好きなだけだったんだ」。

晩年に風貌も一変し、ファンが離れた清原とは対照的に好感度が上がった。今や「投げる不動産屋」の異名は過去のものになっている。

■プロ→芸能界に移った異色の投手

不動産や株などの投資や飲食店経営が野球選手の副業の王道だが、実業を幅広く展開した者もいる。

昭和33年(1958年)夏、甲子園に今なお燦然と輝く記録が生まれた。一大会で奪った三振の数は83。この記録を残した投手が後にバラエティー番組や映画で活躍するとは誰も思わなかっただろう。

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甲子園史に残る大記録を残した板東英二は中日ドラゴンズに鳴り物入りで入団するが「プロで通用するか自分でも疑問だった」と各種インタビューで答えている。「プロで通用しないかも」はオープン戦で南海のエースであった杉浦忠の球を見て、「絶対に通用しない」の確信に変わる。

体が小さいというハンデがあるうえに、杉浦のあの球だ。あんな球、今後どんなに練習を積んだところで投げられるはずがない。「野球だけじゃとても一生、食っていかれん。なにか別の道を見つけないとあかん」私は固く固く決心した。「二足のワラジ」を履く決心である。[『赤い手運命の岐路』板東英二、青山出版社]

■本業に打ち込めばもう少し勝てたのでは

いつクビになってもいいように、1年目のオフからいろんな商売に手を出してました。中古のジュークボックスの販売、牛乳屋……。オフにマッサージの資格を取って、マッサージ屋もやってました。そのうち、4階建てのビルを買い取って、サウナやナイトクラブも始めたもんだから、もう大忙し。とうとう過労でぶっ倒れました。[『週刊朝日』二〇一九年五月一〇日号]

野球ではなく副業で倒れるのも凄いが、後の板東の成功をみれば、先見の明があったといわざるを得ない。

栗下直也『偉人の生き延び方』(左右社)

野球よりも事業を重視する姿勢は徹底していて、「自社ビルが落成したときに仮病を使って球場に行かずにビルで来賓を迎えていた」とネタのように語られているが、事実である。

プロ野球の成績は、実働11年で通算77勝。立派な成績だが、昭和34年(59年)の入団時の契約金2000万円を考えると「本業に打ち込めばもう少し勝てたのでは」と誰もが思う。かけそばが35円、大卒公務員の初任給が1万200円の時代の2000万円である。

引退後は事業と野球解説をしながら、昭和54年(79年)に本格的に芸能界デビュー。天性の話術を生かしたバラエティーだけでなく、ドラマ『金曜日の妻たちへ』シリーズでは俳優としても高い評価を受けた。平成元年(89年)には高倉健と競演した映画『あ・うん』で日本アカデミー賞最優秀助演男優賞まで受賞する。

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栗下 直也(くりした・なおや)
ライター
1980年東京都生まれ。2005年、横浜国立大学大学院博士前期課程修了。専門紙記者を経て、22年に独立。おもな著書に『人生で大切なことは泥酔に学んだ』(左右社)がある。
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(ライター 栗下 直也)