【『夏迷宮』書評】なぜ戦争が繰り返されるのか…時間と空間を越境し、歴史を憑依させる者たち
古川日出男さんの新刊『夏迷宮』(講談社)が刊行されました。第三次世界大戦下の日本とユーラシア大陸を舞台に、現代と古代、神話と現実を呼応させながら壮大なスケールで「オルタナティブな世界」の可能性を探る本書について、ドイツ在住の芥川賞作家・石沢麻依さんの書評を公開します。(「群像」2026年6月号より転載)
深遠な迷宮を経巡って
「きのう第三次世界大戦が始まった。」そんな黙示録めいた始まりに導かれ、読み手は迷宮に足を踏み入れるだろう。その中で、古代から現代までの時間が川となって無数に分岐し、東から西へ、あるいはその逆へと膨大な空間を移動することになる。ただし、大胆ながらも緻密な舞踏のような内部をどれだけ進んでも、迷宮の深遠さを見透かすことは不可能だ。
古川日出男の『夏迷宮』は、第三次世界大戦の最前線、ヨーロッパとアジアの裂け目と呼ばれる土地を、佐藤衛布(エフ)という兵士が彷徨する場面で幕を開ける。戦局も分からないまま飢餓に導かれ、彼は人魚を連れた尼僧アマゼと戦災孤児の一団と出会う。そして、人魚の肉を口にし、不老長寿の身となるのだ。
一方、遠く離れた日本では、銃後の生活を守るため、戦争を日常から切り離す仕組みが巧妙に組み込まれていた。それを象徴するのが、歴史を消費する装置としてのテーマパークである。福島県郡山市に建設された平安京再現型テーマパーク「郡山平安(ピース)ランド」はその典型だ。過去を安全なファンタジーへと変換するその空間は、いわば現実から上手に距離を取る感覚の上に成立している。しかし、幾重にも地理的・歴史的条件が合致した結果、娯楽の殻を破って過去の平安京が現代の郡山市に浸透し始める。
『夏迷宮』の類稀な重層構造は、切断された歴史を葉脈状に張り巡らしながら、土地や人の中にある痕跡に再度はめ込んでゆくことで生み出された。実在の川の名に沿って分岐する逸話は、大きく二つの流れに収斂する。一つは、不老長寿の少女アマゼが人魚と共にユーラシア大陸を旅する物語である。八百比丘尼の伝説を思わせるこの系譜は、日本を離れ中央アジアへと至る過程でローカライズされ、異なる文化圏の中で変容していく。もう一つは、郡山のテーマパークで働く加沙間衣葉(イハ)の物語だ。彼女はアトラクション「夏迷宮」を媒介に、猪苗代湖に棲む分裂した人魚(イナワシロン)を幻視していた。土地や血筋の記憶と深く絡みつき、最終的にそれは舞踏パフォーマンスを通して再生されようとする。
この二つを結びつけるのが、兵士の佐藤衛布と戦災孤児の存在であった。一行は干上がった湖底を離れ、大陸を東へ向かい、日本海を渡った後アマゼの軌跡を「川」の形でたどりながら猪苗代湖へと至る。そして、エフが口にした人魚の肉と淡水の記憶は、地中の湖にいる切り裂かれた半身と呼応する。同時に、彼自身の兵士としての体験もまた、かつての平安京を守護した坂上田村麻呂と共鳴し、その憑坐となる。
本作における憑依というモチーフは、空洞という状態と深く結びついている。飢餓は身体に空洞を生み出し、その空洞が外部の何か、例えば不死性のような別の物語を受け入れる器となる。だからこそ、埴輪や着ぐるみのように「中身を持たない形」が、逆に歴史や存在を宿すのだろう。こうして、坂上田村麻呂やイナワシロンといった異なる時代の伝承が一つの身体に重ねられていく。つまり、歴史は一貫した時間軸としてではなく、断片の集合として再編成されるものである。
その一方で、歴史から切り離されたものもある。テーマパークで提示される「平安」がその一つだ。記号化され、エンターテインメント化されることで、来園者に提示されるのは「それらしい雰囲気」に過ぎなくなる。坂上田村麻呂は栗の精霊「将軍マロン」と可愛らしくキャラクター変換され、「ピース」という言葉が乱用される。第二次世界大戦中、チャーチルが使った勝利のサインが「平和」へ、さらに「平安」へと変質し、第三次世界大戦下の日本では空虚な記号として氾濫していた。この言葉は、外部の戦争から目を逸らさせる魔法のように機能する。同時にその空虚さゆえに、日本社会が精神的に閉鎖しているような、そんなディストピア文学の雰囲気に覆われていると感じる。しかし、その類の小説では、理想を謳い上げ、人々の精神を支配するのは監視国家の役割であった。それに対し、『夏迷宮』でその役を担うのは、理想郷として設計された都型テーマパークである。確かに政府の存在はあるが影が薄く、国外の戦争と対置的に描かれてはいない。あたかも国家というナラティヴの吸引力がすでに失われていることを暗示しているとも読めるだろう。
人類は歴史に学んだりしない
さらにもう一つ、平安(ピース)ランドが福島を舞台にしている点にも注目したい。古川日出男は東日本大震災以降、福島という土地とそこに生きる人々を一貫して描いてきた。現地に繰り返し足を運び取材を重ね、自らの目で土地の姿を追い続けてきた小説家でもある。だからこそ、本作における歴史の地層の見事な描写、それぞれの層に含まれた記憶の豊饒さは、これまでの作品の結実とも言うことができる。そして、聖と穢れが反転するダイナミックなロジックは、福島原発事故に対する政府や社会の冷淡な対応に対する、厳しい批判の眼差しが生み出したのではないだろうか。
歴史を縦横無尽に往き来し、丁寧に細部を編み込む一方で、本作は「きのう/きょう/あす」と時間の境界を突き詰めている。混迷する戦地では情報の時系列が失われ、プロパガンダとなって交錯するうちに、時間感覚は失われるだろう。第三次世界大戦の開始を基準点の「きのう」とするならば、停滞する現在は相対的に「きょう」でしかない。そして、いつまでも戦争の終わりも「あす」も見えないまま、飢餓の中にあり続けることになる。
この時間の観念に従えば、『夏迷宮』で無数に分岐する土地や個人の記憶、つまり歴史は「おととい以前」と位置づけられる。ところが、平安(ピース)ランドの娯楽消費からも明らかなように、その時間は蔑ろな扱いを受ける。鮮明な記憶は「きのう」より遡ることはなく、現在は常にそれとしか比較できないからだ。「そして、歴史になんぞ人類(ひと)は学んだりしないのだ。(中略)ほとんどの人間は、自国の、そして他国の過去をおととい以前に叩き込んでいる。」この一節こそが、戦争が繰り返される背景を痛烈なまでに焙り出しているだろう。
『夏迷宮』は「リアルの桁が外れて時間の桁も外れる」世界を構築した、無限に開かれた小説である。しかし、平安(ピース)ランドの夏迷宮が、裏ヴァージョンの冬迷宮に反転するように、本作は混迷する現代の日本社会、そして戦争にのまれた世界状況へと集約している。恐ろしい勢いで飢餓が蔓延り、おびただしい数の戦災孤児があふれる現在、死で満ちた地中の湖も無数に口を開いているに違いない。アマゼ一行がいない以上、戦争と飢餓が終わりを迎える「あさって」が、本当にこの世界にも訪れるのかは不明だ。それでも、古川日出男の織り成した迷宮をくぐり抜け、読み手は痛みを伴う希望を見出すのではないだろうか。
