「天空の城」として知られる竹田城

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新緑に映える城下町や山々

 城を歩くのが気持ちいい季節になった。石垣や堀も、天守や櫓も、新緑のなかで一段と映える。山城を登れば汗は噴き出すが、夏にくらべればずっとマシだ。では、どの城を訪れるか。今年はどうせなら、NHK大河ドラマ『豊臣兄弟!』の主人公、羽柴(豊臣)秀長が築いたり、築かせたり、城主を務めたりした城がいい。おすすめの7城をピックアップした。

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 最初に第7位として有子山城(兵庫県豊岡市)を挙げる。天正2年(1574)に但馬(兵庫県北部)の守護の山名祐豊が築いた城で、天正8年(1580)に秀長が進攻し、山名氏を因幡(鳥取県東部)へと追い出した。その後、城主となった秀長が、それまでの土の城を石垣の城に大改修。それを命じられたのは、当時は秀長の家臣で、のちに築城の名手として名を馳せる藤堂高虎で、高虎がはじめて手がけた石垣の城である。

「天空の城」として知られる竹田城

 標高321メートルの山上に、東西740メートル、南北780メートルにわたって城郭が展開。山上はよく整備され、主郭(本丸)などの曲輪を囲む石垣や、主郭と千畳敷のあいだの圧巻の大堀切(尾根を垂直に切った空堀)などの遺構が見られる。この季節は萌え出る新緑が心地よく、山頂からは新緑に映える城下町や山々を一望できる(とくに城下町の昔ながらの家並みが美しい)。ただ、登るのに険しく滑りやすい箇所もあるので、7位にとどめておいた。

 第6位宇陀松山城(奈良県宇陀市)。天正13年(1585)に、秀吉から大和(奈良県)の統治をまかされた秀長は、あとで触れる大和郡山城(同大和郡山市)と高取城(同高取町)との計3城で支配する体制を築いた。当時は秋山城と呼ばれ、城代が置かれて、豊臣家の城らしく整備が進められた。だが、元和元年(1615)に廃城になると、徹底した城割(城の軍事機能を無力化するために破壊すること)が行われてしまう。

 平成7年(1995)以降、発掘調査が重ねられ、本丸中心に総石垣の壮大な城だったことがわかり、現在は整備が進んで残された石垣なども露出している。標高は473メートルあるが、山麓からの比高が低いので登るのはたやすい。新緑の季節は石垣や土塁が鮮やかに彩られ、山頂から望む山々は圧巻の美しさを誇る。国の重要伝統的建造物群保存地区に指定されている城下「松山」の散策も楽しい。

森林浴しながら萌黄に包まれた石垣を

 第5位に挙げるのは高取城だ。前述のように秀長は、大和郡山城を本拠としつつ、この高取城と宇陀松山城も重視。これら3つの城で大和を統治することとし、標高583.6メートルの山上に高取城の整備を進めた。工事は秀長の死後も関ヶ原合戦後も続けられ、険しい山上に総石垣の壮大な城郭が現出した。

岩村城(岐阜県岩村町)、備中松山城(岡山県高梁市)と並んで「日本三大山城」の1つに数えられ、そのなかでも山麓の黒門跡から390メートルという比高は断トツだ。山上には、大小の天守のほか27もの櫓、33もの門を支えていた石垣がほぼ完存する。この季節はその石垣が萌黄色の景色と絶妙に調和する。城山全体がハイキングコースで、初夏のさわやかな風を浴びながら森林浴も楽しめる。

 第4位姫路城(兵庫県姫路市)。秀長との組み合わせが意外かもしれない。たしかに、姫路城を現在のように整備したのは、関ヶ原合戦後に入城した池田輝政だ。しかし、天正8年(1580)には、黒田孝高から提供された秀吉が本拠地として大改修し、同11年(1583)に秀吉が大坂城(大阪市中央区)に移ると、今度は秀長が入城。2年後に大和郡山城に移るまで居城にしたのだ。

 じつは現在も、上山里や二の丸、三の丸北側の菱の門の東方、本丸の背後、「るの門」の周辺など、かなり広範囲にわたって、秀吉および秀長時代のものと考えられる、自然石を積んだ野面積みや、石棺や石塔などを転用した石垣が見られる。姫路城の中核は、秀吉と秀長の時代に原型が築かれたことがよくわかる。

 白漆喰の壁面と若葉のコントラストはこのうえなく美しい。4月下旬から5月にかけては、幾重にも重なる天守や櫓、門などの屋根と緑が調和し、随所にツツジなどが加わって、心地よく歩きながら絶景が楽しめる。

美しい石垣と若葉のコントラスト

 第3位は雲海に浮かぶ「天空の城」としても有名な竹田城(兵庫県朝来市)とする。播磨(兵庫県南西部)と但馬の国境の要所にあり、天正5年(1577)に秀長が攻略して落城させ、その後、城代になった。生野銀山を管轄するためにも、ここは重要な城だったのだ。その後、いったん毛利方の手に渡ったが、天正8年(1580)に秀長はふたたび奪取。自身は有子山城主になり、竹田城主には桑山重晴がなった。

標高353メートルの山上に、ほとんど崩れずに残る圧巻の累々たる石垣は、天正13年(1585)から城主を務めた赤松広秀が整備したものだとされる。

4月下旬から5月にかけては、山全体がさわやかな若葉に包まれ、石垣とのコントラストが美しい。とくに山上は木が伐採されるなど整備が行き届いている。天守台から見下ろすと、萌えはじめた緑に覆われた大パノラマが美しい。向かいの山(立雲峡)から、新緑に包まれた城山全体を眺めるのもいいだろう。

 第2位には和歌山城(和歌山県和歌山市)を挙げる。浅野幸長が大改築し、さらに徳川家康の十男、頼宣が元和5年(1619)に入封後、御三家の城にふさわしく整えたが、城の起源は秀長にある。「岡山」と呼ばれていた地名が「和歌山」に変えられたのも、秀長が築城してからだ。

 天正13年(1585)、和泉(大阪府南西部)と紀伊(和歌山県)の征伐後、秀長は秀吉からその両国の統治をまかされ、居城を「岡山」に定めて城を普請するように命じられた。普請奉行は藤堂高虎が務めた。その後、秀長は大和郡山城に在城したので、和歌山城には城代として桑山重晴が置かれた。「紀州の青石」と呼ばれる緑色片岩の自然石が積まれた、勾配がゆるい野面積みの石垣が、この築城当初のものと考えられ、天守台や、西の丸庭園に近い「鶴の渓」などの石垣が該当する。

 その天守台には、幕末近くに再建された3重3階の大天守を核とした連立式天守が残っていたが、昭和20年(1945)の空襲で焼失。同33年(1958)に外観復元されている。天守が建つ標高48.9メートルの虎伏山全体が新緑につつまれ、あちこちでたくさんのツツジが開花する。

秀長の本拠地は「ミニ大坂城」

 さて、第1位はやはり、天正13年(1585)以来、秀長の本拠地で、天正19年(1591)に息を引き取った場所でもある大和郡山城としたい。奈良盆地の南西部に位置し、縄張図を見ると大坂城によく似ている。本丸が東西に長く、その北端に天守台があり、内堀や中堀に特徴的な屈曲がもうけられているなど、類似点が多い。いわば「ミニ大坂城」で、そのこと自体、この城の位置づけを表している。

 かつて金箔瓦が葺かれた豪壮な天守が建っていた天守台に登れば、東大寺や興福寺など古代以来の寺院勢力が一望のもとだ。そうした勢力を抑えつつ大和を支配する拠点だったわけで、東の山を越えればすぐ向こうにある大坂城を守る役割も負っていた。いわば、大坂城と並ぶ豊臣政権の拠点だったのだ。

 とくに本丸周辺の石垣には、秀長時代からのものがよく残る。五輪塔や宝篋印塔、仏像に寺院の礎石までを集めて積み上げた野面積の石垣は、秀長が問答無用に石材を集めさせたという記録と合致する。その石積みとまぶしい新緑とのコントラストが美しい。本丸周辺のほか、再建された追手門周辺も新緑のスポットで、広い範囲にわたって爽快な散歩が楽しめる。

香原斗志(かはら・とし)
音楽評論家・歴史評論家。神奈川県出身。早稲田大学教育学部社会科地理歴史専修卒業。著書に『カラー版 東京で見つける江戸』『教養としての日本の城』(ともに平凡社新書)。音楽、美術、建築などヨーロッパ文化にも精通し、オペラを中心としたクラシック音楽の評論活動も行っている。関連する著書に『イタリア・オペラを疑え!』(アルテスパブリッシング)など。

デイリー新潮編集部