息子が語る、「ライパチくん」「しまっていこうぜ!」で知られた漫画家・吉森みき男と”漫画の時代”

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2026年4月24日、漫画家の吉森みき男さんが逝去された(享年84歳)。息子で作家の吉森大祐氏は、闘病中の父と過ごす中で、その半生を小説に残すことを決意する。『練馬純情伝』と題して発表した作品執筆中の思い、そして、昭和40年代、日本が右肩上がりだった時代に、歩みをそろえるように花開いていった漫画業界で活躍した、みき男さんへの思いを、大祐氏が自らつづってくれた。

吉森大祐(よしもり だいすけ)

1968年、東京下町生まれ。慶應義塾大学文学部卒業。都内メーカー勤務。 2017年『幕末ダウンタウン』で小説現代長編新人賞受賞。’20年『ぴりりと可楽!』で細谷正充賞受賞。著書に『逃げろ、手志朗』『うかれ堂騒動記 恋のかわら版』『青二才で候』『東京彰義伝』『大江戸墨亭さくら寄席』『蔦重』などがある。

漫画市場とともに成長してきた、父親のすがた

「俺は、いちばんいい時代に、漫画業界の片隅にいさせてもらった。とてもラッキーだった」

これは、父の吉森みき男がよく言っていた言葉です。

確かに父は、1965年に漫画家デビューし、70年代、80年代、90年代前半までが主な活動期で、それは日本の少年漫画産業が勃興し、全盛期を迎える成長の時期と重なっています。父は、スターでも大御所でもありませんでしたが、地味ながら業界でご縁をいただき、長期連載を抱えながら漫画家としてこつこつ真面目に働いた人でした。漫画産業の市場の成長の恩恵を、目いっぱい受けた人だったと言えるのかもしれません。

私の幼い記憶の中の父は、自宅2階のアトリエで、タバコの煙の中、アシスタントさんたちを指示しながら、ひたすら原稿を描いている姿です。家には24時間関係者が出入りし、編集者さんからの電話が鳴り響く。夜中も電気が煌々とついていてワイワイと話し声が聞こえる。母は田舎から出てきているアシスタントさんたちのために、早朝から深夜まで手料理を作ってはどんどん食べさせる。自宅がなんだか合宿所か町工場のような感じでした。場所も東京の下町でしたし、映画の『寅さん』に出てくるタコ社長の町工場を思い浮かべていただけるとピッタリです。あのころ、父の睡眠時間は、3、4時間。自宅の目の前にあったアパートをまるっと借りてアシスタントさんたちの寮にしており、子供だった私と弟は、そこを遊び場にしていました。

下積みの長かった父は、依頼があれば、あらゆる雑誌や新聞に描き、ときにはテレビやラジオなどのメディアに出演もしました、ある作品の単行本が100万部を突破したときは都内のホテルでパーティもしましたし、アシスタントさんを連れて社員旅行をしました。ともかく、忙しかった、という印象です。

真面目に頑張っても報われない、陰りの時期

しかし、80年代が終わり、90年代に入ると、父の年齢は40代半ばを過ぎ、仕事に陰りが出ました。簡単に言えば、時代に乗り遅れて、売れなくなったのです。業界の評価は急に「過去の人」となり、頼りにしていた同世代の編集者さんたちも、偉くなって現場を離れたり、辞めたりして去っていきました。

父は改めて持ち込みを始めましたが、もう若手ではないので、周囲の視線は冷たかった。当時は、父が編集部にあらわれると「先生! なんと、わざわざご足労いただいきまして、すみません〜」と偉いひとがでてきて、にこやかに応対され、さんざん世間話をするものの仕事の話はしてもらえず、ぽつんと出版社をあとにする……そんな感じだったそうです。まあ、気楽な性格の父でしたので、のちの酒席で笑いのネタにそんな話をするのですが、それにしても、しょぼんと出版街を歩く、50代の父の姿が目に浮かぶようです。

こうなってくると、いよいよ作品のパワーも上がらない。世のマニアと言われるひとびとは残酷なもので、息子の私にまでわざわざ近づいてきて、皮肉な批評を投げてくる人までいました。「お前のオヤジの漫画、つまらねえな」といきなり言われたこともあります。まあ、家族あるあるですけどね。

でも、人生には、真面目に頑張ってもどうしようもない時もあると思うのです。

父は、クリエイターとして、40歳を越え、50代になったところで、仕事がなくなってしまったのでした。

車椅子を押しながら想像する「あの頃」

こうして我が家は、90年代半ばから、経済的に非常に苦しくなりました。不思議なもので、あんなにあった貯蓄も一気になくなるものなのです。フリーランスはそういうものだということは、少しでも経験したことがある人なら、わかるのではないでしょうか? そもそもフリーランスは、年金などもほとんど出ません。

幸いにも、その頃、長男の私が大学を出て電機メーカーに就職しましたので、新入社員ながら私の給料が家族の収入源となりました。どんなことがあっても私が会社を辞めなかったのはそのせいです。実は私は20代で一度小説家デビューしていますが、そのときも辞める気は全くありませんでした。当時はいろんなものを切り売りしながら生活している状態で、「俺が安定していないと実家が崩壊するぞ」という気持ちが常に頭の片隅にあり、私の人生は極めて保守的なものになりました。まあ、楽しかったから全然いいんですけどね。のんきな性格と、気のいい友人たちのおかげで、明るく楽しくやってきました。会社と友人たちには本当に感謝しています。

そんなこんなで我が家にもいろいろありましたが、一家がいちばん幸せだったのは、漫画の熱気の中にあった70年代から80年代だったような気がします。令和に入って、仲の良かった先生方が次々に亡くなり、老いた母は「ああ、みんな元気で、わくわくしていたのにね。XXX(著名な漫画家)さんが恋人を連れてきて、結婚するんだなんて言って、みんなでお祝いしてねえ。あのころが夢のようだわ」などと言います。

実は、両親にとって、いちばん楽しかったのは、私が生まれる前、婚約時代だったのではないか。デビューして、二人三脚でヒット作家になろうと頑張っていた、昭和四十年代だったのではあるまいか。80代になった父の車いすを押しながら、そんなふうに両親の若き日を想像するのです。

父親の話から膨らませた「昭和漫画史」の物語

もう父も先は短いな……そんなふうに感じながら、「あの頃」の空気感を懐かしむように私は小説を書き始めました。

タイトルは、『練馬純情伝』。昭和40年代前半の東京の漫画出版界を背景にした青春小説です。

時代的に言うと「トキワ荘」以降「ジャンプ」以前。「サンデー」と「マガジン」はありましたが、「ジャンプ」、「チャンピオン」はまだない、そんな時代を設定しています。

この時期、ちばてつや先生は「ジョー」以前、赤塚不二夫先生は「バカボン」以前、藤子不二雄先生は「ドラえもん」以前、水木しげる先生は「鬼太郎」以前。つまり、昭和の巨匠たちがまだ代表作を生み出しておらず、試行錯誤しながら坂を駆け上がっている最中です。昭和漫画の爆発前のスキマのような期間なのです。

父の昔話をとっかかりに、創作するための想像力を膨らましていきました。そして、この時代がまさに日本の漫画産業の青春期の始まりの時ではないか、と思うようになりました。

父の若い頃を想像しながら書くことは、そのまま昭和の漫画が希望に満ちていた「あの頃」を描くことになる、そのことに気が付きました。意図せず昭和漫画史の一面を、描くことになりました。

この小説『練馬純情伝』が2026年4月20日に発売された直後、父吉森みき男は、24日未明、84歳で逝去いたしました。いつか来ることと覚悟していましたが、出版直後に亡くなるとは夢にも思っていませんでした。

父は無名の漫画家であり、活動したのも主に昭和です。今どき誰にも知られておるまいと思いこんでいました。しかし、訃報が伝わると、かつてお世話になっていた出版社、新聞社、そして、読者の皆様から多くの連絡とメッセージをいただきました。こんなに父の作品を覚えていてくださっていたかたがいたということに驚き、心が震える思いでした。これはきっと、父の力だけではなく、漫画というものの底力なのだと、改めて目を瞠かされた思いです。

その中のひとりの方からのコメントを、ここに転記させていただきます。

「俺たちの世代は、漫画で育ってきた。みき男先生の漫画も、確実に、その一部であったんだ。お疲れ様です」

息子として、望外のお言葉です。

吉森大祐『練馬純情伝』

手塚治虫、トキワ荘世代に続く、スター漫画家の登場前夜。

花森ミチオは、23区の西のはしっこ練馬でアシスタント生活を送っていた。

先生は、人気少女漫画家・牧村美弥子と、独特な作風で30歳を前に燻っている柿本あきら夫妻。

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