「刑事の2〜3人殺すぐらいはなんともない」72歳と25歳の女性らを暴行し殺害、日本を戦慄させた“連続殺人犯”が逮捕されるまで
〈戸棚から72歳女性の遺体、性的暴行の痕跡も…検事に「あれほど大胆な悪漢は見たことがない」と言わしめた“連続尼僧殺し”のはじまり〉から続く
史上、犯罪者は数多いが、大米龍雲(おおよねりゅううん)ほど、ありとあらゆる悪の形容詞を付けられた人物もいないだろう。龍雲が逮捕されたのは1915(大正4)年。当時新聞の見出しだけでも「殺尼魔(さつにま)」「食人鬼」「極悪人」などと書かれ、検事に「あれほど大胆な悪漢は見たことがない」と言わしめた。
【実際の写真】「食人鬼」「極悪人」などと呼ばれた男と、その内縁の妻を写真付きで報じた当時の新聞
しかし、当時の新聞記事と関連資料を見ていくと、必ずしもそのイメージとは合致しない「顔」もうかがえる。大米龍雲は本当に「悪逆非道の極悪人」だったのか? 当時の新聞記事を適宜現代文に直し、文章を整理。今回も差別語、不快用語が登場するほか、敬称は省略する。(全4回の2回目/続きを読む)
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諏訪の森(現在の東京都新宿区高田馬場付近)で72歳の住職が、鎌倉で25歳の尼僧が、何者かによって性的暴行を受け殺害された。この2人が犠牲となった凄惨な事件から半年後、再び尼寺を狙った事件が発生。その際、被害者は犯人を目撃していた。外見の特徴は「40歳前後の鼻筋の欠けた色白の男」。
この目撃情報をきっかけに、事件は容疑者逮捕へと向かう。逮捕に至るまでの経過は『警視庁史大正編』が読み物ふうにまとめていて、当時の雰囲気が分かるのでそれを引こう。

※写真はイメージ ©yamasan/イメージマート
捜査線上に浮かび上がった「松本四郎」の名前
〈 法仙庵の事件から20日余りが経過した8月8日の昼下がり、警視庁捜査課地下7号調べ室に、夏羽織にカンカン帽、雪駄履きという、当時の典型的な刑事の服装をした1人の男が慌ただしく飛び込んできた。腕利きの河内義昌刑事。彼は事件発生以来帰宅もせずに泊まり込みで、贓品(ぞうひん=犯罪などで得た品物)発見に飛び回っていた。そのかいあって、芝露月町の古着屋に法仙庵から奪われた法衣など数点が売られていたのを発見した。
さっそく、売り主の「松本四郎」の住居である芝愛宕下町の雑貨商宅を訪ねると、松本は前々日の夜、荷物14個を荷造りして荷車を雇い、浅草区馬道2丁目に引っ越していた。その人相は鼻筋がないとのことで法仙庵の犯人と一致している。まさしく相違ないというので報告に帰ってきたのだった。
捜査陣はがぜん色めき立った。時を移さず、応援の6人の刑事が人力車を駆って馬道に向かった。ところが、該当する人物は見当たらず、空しく引き揚げるしかなかった。そこで河内刑事と同僚が芝の雑貨商にあらためて聞くと、松本は年齢40歳ぐらいの妻と2人で、7月5日に家賃月3円(約1万1000円)の約束で2階六畳間に引っ越してきた。学校の先生だと言っており、親戚から頼まれたと言って着物をたくさん持ってきたことがあった。勤め先の都合で馬道に引っ越すと言って番地まで教えていったという。その話を聞いて両刑事は「飛んだ」(逃走した)と直感した。〉
容疑者の「松本」は女を連れて博多へ飛んだ
このあたり、当時の刑事の捜査手法がよくつかめる。2人の刑事はすぐ長距離鉄道客の乗車・下車が多い新橋駅に駆けつけた。
〈「8月6日に男女2人連れで荷物14個を持って乗車した客はないか」と調べたが分からない。しかし、7個の荷物をチッキ(託送手荷物)にして博多まで送った客がある。さらに赤帽(駅の軽貨物運送業者)を調べると、7個の荷物を運ばせて6日午後10時40分発下関行き列車に乗り込んだ男女2人連れがあることが分かった。7個のチッキ、7個の手荷物(手回り品)で合計14個。人相も特徴も完全に一致している。
しかし、この列車は順調に接続すれば、8日午後0時39分に博多に着くことになっている。時計を見ると、もう午後1時20分。予定時間を40分も過ぎている。いくら電報で手配しても間に合わない。両刑事はしおれて引き揚げ、橋爪捜査係長に報告した。
ところが、折よく橋爪係長は福岡県人で、博多行き列車の事情をよく知っていた。「連絡船の都合によって、門司で1汽車遅れることが多い」。とすると、まだ間に合うかもしれない、というので、直ちに福岡警察署に松本四郎夫妻の取り押さえ方を電報で依頼した。〉
本州と九州を結ぶ関門トンネルが開通したのは戦時中の1942(昭和17)年。それまでは関門連絡船が主流だった。1898(明治31)年から始まっていたが、1901(明治34)年からは下関―門司間で運航。山陽本線で来た旅客は下関で下車。所要時間20分程度の関門連絡船で九州に渡り、鹿児島本線に連絡した。
ここからは8月11日付の福岡の地元紙・福岡日日新聞(西日本新聞の前身)の記事を見よう。実は逮捕の初報としては1日前の8月10日付で報知朝刊が「重大犯人福岡にて捕は(わ)る 諏訪森の尼殺し犯人か」の見出しで報じている。
だが、記事内容を比べると、現地紙ゆえか、福岡日日の方が臨場感がある。
「これだから田舎の警察は困る」
〈 紳士體(体)の兇(凶)漢 強盗福岡にて捕縛
さる8日午後3時ごろ、東京・警視庁から福岡署宛てに長文の電報が到着。それから数十分を経て同署・中嶋刑事は博多停車場に急行した。到着すると、異様な眼光で何かを見いだそうとするようにくまなく見て歩き、駅員に6日午前(午後の誤り)10時49分に東京・新橋駅を発した列車(の接続列車)は何時に到着するかを尋ね、8日午後2時29分着との返答を聞いた。
小荷物係には新橋発の手荷物到着について質問。「中山」と記した小荷物7個と手荷物8個(7個の誤りか)が到着し、既に男2人が受け取って駅の外に持ち出したという答えにやや力を落としたが、「中山」を手掛かりに付近を探した。すると、1台の荷車に荷物を積み、雨覆いをしようとしているのを見て、確かめようと近づいた。少し離れて夏インバネス(男性用和装コート)にパナマ帽、セル(ウール)の袴を着けた一見立派な紳士と、その脇に丸まげの女がたたずんでいた。
よく見れば、警視庁からの電報の人相と相違なし。つかつかと紳士の前に進み、やにわに右手で紳士の帯をつかみ、左手を女の帯に差し入れて「自分は福岡署の刑事だ。取り調べの筋があるから派出所まで同行せよ」と言い渡した。紳士は驚くかと思いのほか、傲然と「これだから田舎の警察は困る。人権の何物かも考えず、ふらちなことをする。乃公(だいこう=俺様)はこのような不法を甘受する者ではない。身分のある者に向かって無礼をするな」と一喝した。しかし、刑事は一向に構わず、「本職は上官の命を受けて職務を執行する」として派出所に引っ張って行った。〉
あくまで紳士を装い、地方警察の刑事を馬鹿にする。それはこの男の変わらないスタイルだ。記事は続く。
「松本四郎は偽名で、本名は大米龍雲」
氏名、年齢を追及したところ、紳士は東京・浅草区(現台東区)千束町1丁目、士族、書家・大米龍雲(44)だが、その名前は禅宗寺に生まれて命名されたもので、通称は松本四郎。女は福岡県田川郡添田町中之寺の中山たま(40)と申し立てた。手荷物などは彼女の名前を使っていた。それを聞くと、刑事はいち早く捕縄を取り出して龍雲を縛り、龍雲がいろいろ悪口雑言を言うのを耳にかけず「警視庁から逮捕の照会があり、強盗犯人として逮捕する」と言明した。
ずうずうしい龍雲もさすがに閉口したようで、刑事に「旦那」の尊称を付け、捕縄の縛りを緩めてくれと哀願するようになった。福岡署に引き立てて留置場に入れ、警視庁に逮捕したことを電報で知らせた。
その後受けた警視庁などの取り調べにも、男は最後まで本名や本籍などを明らかにしなかった。というより「妾腹で戸籍がなかった」と後日の新聞報道にある。『警視庁史大正編』は「松本四郎は偽名で、本名は大米龍雲」としているが、これも本人の供述が基だから完全には信用できない。「松本四郎」で通した新聞もあるが、便宜上、世間に広まっている「大米龍雲」で統一する。
福岡から東京への移送を拒み、大暴れ
こうして身柄は押さえたが、それからが一苦労だった。新聞は報知同様、諏訪ノ森の老尼殺しの容疑を一斉に報道。警視庁から河内刑事と同僚の2人が身柄の護送のため福岡に到着した。ところが……。「兇漢東京護送を拒む 福岡署にて狼の如く暴る 自働(動)車にて漸(ようや)く博多驛(駅)へ」。8月13日付福岡日日はこんな見出しで社会面トップで報じた。
記事の概要は――。
「刑事の2〜3人殺すぐらいはなんともない」
〈8月12日早朝の東京行き列車に乗せようと、龍雲を留置場から引き出した瞬間、河内刑事が右手に手錠をはめたところ、憤然として暴れ出し「温順に同行してくれと頼めば苦情も持ち出さずに同行するつもりだったが、こんな侮辱を受ける以上は、たとえこの場を死んでも動かない。決死の覚悟だから、刑事の2〜3人殺すぐらいはなんともない」などと熱弁を振るった。
河内刑事が「手錠は規則だから」と言うと、「規則もへちまもあるものか。連れて行けるものなら勝手にしろ」と言いながら、着ていた伊勢崎銘仙(群馬県・伊勢崎名産の絹織物)の単衣(裏のついていない着物)をずたずたに引き裂いた。出発時間が迫る中、ますます駄々をこね、急に「脳が悪くなった」と言って板張りにうつ伏せになって動こうとしない。列車の時間が過ぎたので予定を断念して留置場に戻した〉
〈留置場の近くの房にいたたまが「おとなしく東京に行くのが身のため」と説得。「俺は既に死を覚悟している」と龍雲がわめくと、たまは「死んで花実が咲くものか」と返した。龍雲は中嶋刑事に同行を依頼。中嶋刑事が「分かった。一緒に行ってやる」と言うと、房内で大の字に。午後になって河内刑事らが午後4時7分発で出発すると伝えたが、たまの言葉が効いたのか、午前と違って黙然としていた。たまの弟に手紙を書きたいと言いだし、筆、紙、すずりを借りて書状をしたためた後、半紙に「轉(転)迷開悟」の4文字を書いた。
出発時間が近くなると、河内刑事らは龍雲に手錠をはめ、捕縄で羽交い絞めにしたが、龍雲は「移送に承諾したのだから、逃走などの心配は無用。そんなに堅く括らなくてもいい」と言った。刑事たちは龍雲の機嫌をとりながら、門前に大勢の見物人が集まる中、ようやく自動車で福岡署を出発。博多駅で東京行きの列車に乗り込んだ〉
移送中も大暴れ
同紙には彼の書の写真が載っているが、確かに達筆だ。8月15日付東日によれば、福岡県・大宰府の書家に師事して書を習い、仙台から広島まで各地を「書家」の触れ込みで回り、裏で悪事を重ねていたという。法話がうまく「名説教師」としても知られていたとも。しかし、騒ぎはそれだけではなかった。
翌8月14日付福岡日日には「兇漢下關(関)にて又暴る 護送両刑事大(おおい)に持(もて)餘(余)す」の記事が――。それによると、移送中も龍雲は刑事相手に大ぼらを吹き続けていたが、関門連絡船で下関に渡り、山陽本線の列車まで時間があったため、夕食を要求。待合所兼旅館で食事をした。その際、「お茶を持ってこない」とかんしゃくを起こし、椅子や茶わんを投げつけて大暴れ。刑事たちがなだめすかしてようやく列車に乗せた。
福岡から同行した中嶋刑事はそこで戻ったが、警視庁からは応援の刑事2人が静岡まで出張。なんとか14日午前7時40分ごろ、東京駅に到着した。当時の時刻表を見ると、東京発着、博多発着とも文中の時刻に近い列車はあるが、一致する列車はない。
その14日付朝刊に初めて龍雲の写真が載った。東京朝日(東朝)と福岡日日で、いずれも連行写真。龍雲とたまはもちろん和服だが、2人の刑事も和服にカンカン帽というのが時代を感じさせる。各新聞は護送の模様と併せて、龍雲が自供したとする事件の内容や彼の生い立ち、経歴などを載せるが、内容はバラバラ。龍雲の供述を刑事から聞いたのだろうが、その供述自体どれほど信用できたか。
残虐な犯行の数々を自白
取り調べについては『警視庁史大正編』がこう書く。
〈 杉並の法仙庵の強盗は贓品が発見されているので問題なく自白したが、諏訪ノ森と鎌倉の尼殺しには何も証拠がなく、推測にすぎないのであるから、頑強に否認したし、また強く押しようもなかった。
警視庁に宛てて送った14個の荷物が1日遅れて到着した。さっそく開いてみると、おびただしい衣類の山。しかもその中には、法仙庵の被害品はもちろんのこと、諏訪ノ森の老尼殺しから鎌倉の尼僧殺しの被害品まで現われた。有無を言わさず追求する石森警部の前に「こうなったら仕方がない。悪事は全部白状する。しかし、そこらの小泥棒とはわけが違う。殺人と強盗だけでも200(件)もある」「それを白状するのだから、警視庁の一番上役を連れてきてくれ」と豪語した。
捜査係長の橋爪警視が現われると、殊勝に頭を下げ、「私がこれから申し上げることは決してうそ偽りではありませんから3〜4時間聞いてください」と前置きして、さすがの係長も唖然とするような残虐な犯行の数々を自白した。〉
経歴についても同書に頼るのが無難だろう。
〈 東京・浅草の富裕な質屋に生まれたが、幼い時、父母を失った。7歳の時、共謀した親戚に家の全財産を奪われたうえ、大分の龍昌寺という荒れ寺の住職・大米龍元の弟子にされ、龍雲の法名をもらった。18歳の時、龍元が病死したので、寺を出て熊本の柔道道場の内弟子に。柔道を習い3段を取った。日清戦争が始まった時、軍夫を志願して戦地へ。敵の地雷にかかって大勢の兵隊が死傷した時、負傷して送還された。この時に鼻柱を失った。その後、静岡県島田町(現島田市)の福仙寺の住職になったが、貧乏寺でつまらないので、間もなく飛び出し、詐欺や窃盗を繰り返しながら各地を転々とした。〉
ただ、これも100%信用できるかどうか――。「岡山県生まれ」と書いた新聞も多いし、龍昌寺は「身持ちが悪く追い出された」「出奔した」と書いた記事も。
ここまでは「破戒僧の転落の軌跡」といえるが、龍雲はそこからあっさり殺人にまで突き進む。『警視庁史大正編』を基に、同盟通信の司法担当記者、石渡安躬が裁判提出資料をまとめた『斷獄實録第1輯』(1933年)や新聞報道を突き合わせて、龍雲の犯行の足どりを見ていく。(つづく)
〈「彼が殺人鬼とは知らないまま」全国で殺人、強盗を繰り返した“凶悪犯罪者”…暴行→妻にさせられた女が語った“絶望の言葉”〉へ続く
(小池 新)
