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<天下一の補佐役>豊臣秀長の目線で歴史をダイナミックに描く、夢と希望の下克上サクセスストーリー・大河ドラマ『豊臣兄弟!』(NHK総合、日曜午後8時ほか)。ストーリーが展開していく中、戦国時代の武将や社会について、あらためて関心が集まっています。一方、歴史研究者の本郷和人先生がドラマをもとに深く解説するのが本連載。今回は「信長の撤退」について。この連載を読めばドラマ本編がさらに楽しくなること間違いなし!

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「逃げ戻ってきた説」への違和感

越前の朝倉義景攻めに失敗した織田信長は、京都へ戻った――。

一般にはそのように説明されます。

しかも多くの場合、「ようやく京都に帰り着いた」「這々の体で帰ってきた」、もっと極端に言うと、「ほんのわずかな馬廻りのみを連れて、逃げ戻ってきた」というニュアンスが付随して語られがちです。

実際に、第十四回「絶体絶命!」では、敵の目を欺くために馬を捨て、険しい山道を越えて京へ向かい、傷だらけの姿で義昭のもとへたどり着く信長の様子が描かれました。

しかし、この理解には違和感があります。

第一に、この時点の京都は、例えば岐阜や清洲のような、信長の「ホッと一息つける拠点」ではありません。

将軍足利義昭を擁してはいるものの、京都は依然として流動的な政治空間であり、言ってみればニュートラルな都市です。

治安維持を司る機能が喪失したとき、罰せられることを恐れない庶民ほど怖い者はない。

それは、徳川家康が本能寺の変の後に命からがら三河へと逃げ帰った「神君伊賀越え」の危険性を想起すれば明らかです。

京都は「守り」に適していない場所

しかも京都は、防御という点では極めて脆弱な場所です。


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周囲を山に囲まれているとはいえ、平野部が広く開け、守りにくい。

歴史的にも京都攻防戦は、攻める側に利があります。

そんなところに「逃げ込めば安全」という発想は生まれません。

この点は後世の動きも裏づけています。

豊臣秀吉は京都に恒常的な防御拠点を築くことを断念し、京都にほど近い伏見に城を置きました。

また江戸時代においても、江戸幕府が京都で用いた二条城は、いわゆる籠城戦を前提とした「城」というより、政治的・軍事的な屋敷に近い性格のものです。

京都という都市そのものが、防御に適した構造ではないことを示しています。

3万の大軍勢はどこへ…

「信長が逃げ戻ってきた説」への違和感、その第二に、軍勢の問題があります。

朝倉攻撃のために編成された信長軍は、しばしば3万規模とされます。

これはこの時の信長の所領の広がり(美濃、尾張、北伊勢、南近江で220万石ほど)を考えると、リーズナブルな数(5万の動員が可能)なので、かなり信用できると思います。

この大軍が金ヶ崎からどのように移動したのか、説明が曖昧なままです。

まさか3万もの大軍勢が四散し、所在不明になるとは想定できません。

自ら危地に身を置くとは考えにくい

考えられるのは大きく二つです。

一つは、信長のみが京都へ向かい、大半の軍勢は北陸側から美濃へ帰還したという見方。

もう一つは、信長と軍勢の大半が行動をともにし、そのまま京都へ入ったという見方です。

前者は一見あり得そうですが、冷静に考えると不自然です。

大将の身辺が手薄な状態で京都に入れば、各勢力から狙われる危険はむしろ増大します。

敗退直後の指揮官が自ら危地に身を置くとは考えにくい。

したがって、より合理的なのは後者でしょう。

敗北しても兵力は維持していた

すなわち、信長は撤退の過程で主力軍を保持しつつ京都へ入り、その周囲にはなお相当数――仮に2万前後――の兵力が存在していたとみるべきです。

司馬遼太郎先生の『国盗り物語』がいうような、朽木越え(朽木谷の領主である朽木元綱は信長の襲撃も考えたが、松永久秀の仲介で中止した、というもの)のストーリーはあくまでもフィクションでしょう。

こう考えると、「敗走して命からがら京都へ逃げ帰った」というイメージは修正を要します。

むしろ信長は、敗北ののちも軍事的実体を維持したまま、次の局面に備えて京都という政治空間に戻った、と理解するほうが史実に近いのではないでしょうか。

敗退という事実だけに引きずられてしまうと、当時の軍事行動の現実を見誤ります。

重要なのは、「どれだけ兵力を保ったまま次に移行できたか」という点なのです。