(※写真はイメージです/PIXTA)

写真拡大

収入が高ければ、老後資金も自然に貯まっているはず――そう考える人は少なくありません。けれど実際には、住宅費や教育費、親の介護、物価上昇などが長年積み重なり、家計の実態が見えにくくなっているケースもあります。特に夫婦のどちらかに家計管理を任せきりにしている家庭では、「気づいたときには遅かった」という事態も起こり得ます。

「これだけ稼いできたのに」…定年前に見た通帳の残高

都内のメーカーに勤める会社員の伸一さん(仮名・58歳)は、定年を2年後に控えたある日、自宅のダイニングテーブルで通帳を見つめたまま動けなくなったといいます。

「最初は、印字を見間違えたのかと思いました。ゼロが一つ足りないんじゃないかって」

通帳に記されていた残高は、約94万円。伸一さんは、少なくともその10倍程度、1,000万円前後はあるものと信じていました。

「投資信託や保険もあるにはあるんですが、すぐに使えるお金はこれだけなんだと分かって……」

伸一さんは、そのとき初めて、“老後資金がある”と思っていたものの正体が、実際には流動性の低い資産だったことに気づいたといいます。

「年収はここ数年ずっと900万円台でした。お小遣いは月6万円。飲み会も減らしてきたし、ブランド品を買う趣味もない」

家計の管理は、結婚以来ほぼ一貫して妻の美香さん(仮名・55歳)が担ってきました。伸一さんは給与口座に生活費を入れ、毎月決まった額だけを自分の口座に移し、残りは妻に任せる。それが長年の形でした。

「俺は仕事をして家にお金を入れる。細かい管理は妻がする。よくある分担だと思っていました」

きっかけは、会社の退職準備セミナーでした。老後の生活費や年金見込み額、退職金の使い方について説明を受けるなかで、講師から「まずは、いま手元にある金融資産を正確に把握してください」と言われたのです。

その夜、伸一さんは妻に「うちの貯蓄、いまいくらあるのか見せてほしい」と頼みました。差し出された通帳を見て、冒頭の残高に絶句したのです。

「思わず、“これ、本当にうちの通帳?”って聞いてしまいました」

妻はしばらく黙っていましたが、やがて静かに口を開きました。

「貯まっていると思わせたままにして、ごめん。でも、足りなかったの」

聞けば、長男と長女の大学進学費用が想定以上にかかり、さらに下の子の浪人時代の予備校代も重なったといいます。加えて、数年前には美香さんの母親が要介護状態となり、施設入居までのあいだ、通院付き添いや生活支援のためにまとまった出費が続いていました。住宅ローンの繰上返済も一部行い、物価高の影響で日常の生活費も膨らんでいたというのです。

「妻を責めきれなかった」…見えていなかった老後の入り口

「教育費がかかるのは知っていました。でも、ここまでとは思っていなかった。親のことも、“大変だったんだろうな”と、そのとき初めて具体的に分かったんです」

伸一さんは、怒りより先に、自分が何も把握していなかったことへの戸惑いのほうが大きかったと振り返ります。

「通帳の残高を見てショックを受けたのは事実です。でも、じゃあ自分は何を見ていたんだ、という話でもあって」

妻は「子どもたちが独立すれば何とか立て直せると思っていた」「退職金が入るまで持ちこたえればと思っていた」と話しました。しかし、肝心の退職後の見通しは、夫婦のあいだでほとんど共有されていなかったのです。

総務省『家計調査(2025年)』によると、二人以上の世帯の消費支出は月31万4,001円です。現役世代でも支出水準は高く、住宅費や教育費、親支援が重なれば、収入が多くても貯蓄ペースが鈍るのは不自然ではありません。

その後伸一さん夫婦は、初めて家計表を一緒に作り直しました。退職金を前提に考えるのではなく、年金見込み額、住宅費、医療費、生活費を洗い出し、必要なら住み替えや働き方の見直しも検討することにしたといいます。

「定年前に分かっただけまだよかった、と思うしかないです」

安定した収入があっても、家計を見なければ老後の安心にはつながりません。足りなかったのは、残高の“ゼロ”ひとつだけではなかったのかもしれません。夫婦でお金の現実を共有する機会そのものが、長いあいだ欠けていたのです。