奈良県のアンテナショップの店頭に立つせんとくんの肩に手を置く籔内佐斗司さん(1月16日、東京都港区で)=前川和弘撮影

写真拡大 (全5枚)

 仏様を思わせるような丸みを帯びたフォルム。

 頭にはシカの角。一度目にすると忘れられないデザインは、他の「ゆるキャラ」とは一線を画す。

 そのキャラクター「せんとくん」は、2007年に生まれた。平城京に遷都して1300年の節目を記念したイベントの公式キャラクターとしてデザインされた。制作したのは、彫刻家の籔内佐斗司さん(72)=当時53歳=。「みんなに愛されるキャラクターになる」。自信と願いを持っていた。

 「仏教を冒涜している」。08年2月にデザインが発表されると、猛烈な批判にさらされた。白紙撤回を求める意見まで出始め、反対する団体が別のキャラクターを作り、騒動はさらに大きくなる。しかし、この騒動を経て、せんとくんの人気は揺るぎないものになっていく。(大阪社会部 前川和弘)

「冒涜だ」一転「かわいい」 

 「炎上」と言えるだろう。「気持ちが悪い」「奈良がバカにされている」。姿の見えない人からの容赦ない批判が殺到する自身のウェブサイトを前にしても、「せんとくん」の生みの親、籔内佐斗司(やぶうちさとし)さん(72)は、不思議と落ち着いていた。

 良くも悪くも一見するだけで多くの人の心を揺さぶる、このキャラクターは、どのように生まれたのだろうか。

 籔内さんは彫刻家だ。日本三大妖怪の一つとも言われる「酒呑童子(しゅてんどうじ)」、親孝行の鬼として伝わる「茨木童子」……。畏れられつつも愛される、日本人にとって身近な「童子」という存在を表現した作品の数々が代表作だった。

 2007年1月、3年後に奈良県内で開かれる「平城遷都1300年祭」の公式キャラクターの制作依頼が舞い込んだ。「ひと目で奈良とわかるものにしたい」。すぐに「鹿坊(ろくぼう)」が頭に浮かんだ。「鹿坊」は童子シリーズの一つで、童子の頭にシカの角が生えている。シカは神の使いとされ、釈迦の前世の物語には、シカとなって現れる話がある。これに着想を得て生み出した。

 「鹿坊」に、より親しみやすさを加えた新しいキャラクターを造形するのに時間はかからなかった。「愛してもらえるものができた」

 キャラクター選考には、著名な現代美術家の作品など21点が集まった。07年3月の選考会。「かわいらしいものが良い」「古都らしいデザインを」……。選考委員の間で意見は分かれ、1点に絞り込む議論は難航した。

 当時は「ゆるキャラ」が競い合うように乱立していた時期。選考委員のマーケティングコンサルタント、西川りゅうじんさん(65)は、異彩を放つ籔内さんのデザインに「ひと味違いキャラが立っている」と一目でひかれた。3時間以上に及ぶ議論の末、ついに公式キャラクターが決まった。

 発表は08年2月。反響は、想定を大きく超えた。

 当時、普及し始めていたネットコミュニティーが批判の広がりに拍車をかけた。ネット上で反対運動が起き、再考を求める要望書も出された。「まんとくん」、「なーむくん」と、市民団体や寺院団体が独自のキャラクターを相次いで発表。08年4月には「せんとくん」と愛称が決まっていたものの、騒動が収まる気配はなかった。

 背景には、多額の公費を投じる事業への不信感もあった。まんとくんの制作に関わったデザイナーの松永洋介さん(54)は「公共性のあるキャラクターに不快感があるのは不適切だ。選考過程を含めた事業の不透明さへの異議申し立てでもあった」と語る。

「答える義務」、数百件の批判に1件1件返答

 籔内さんのウェブサイトには、応援する好意的な意見も多く寄せられたが、これを打ち消すかのように、批判の書き込みは数百件に及んだ。

 「色んな意見があるのはアーティストの宿命だ」とわかっていても、せんとくんを巡る騒動の広がりは、あまりに異様なものに感じられた。

 無視することもできた。しかし、自身への問いかけと受け止め、一件一件に返答していった。デザインに込めた思い、選考に問題がなかったこと……。言葉を尽くして丁寧に答え、「見守ってほしい」と伝えた。批判的なコメンテーターが居並ぶワイドショーにも出演。「答えるのが義務と思った。それに、声をかけられたら返事をするでしょ」

 期せずしてせんとくんの露出が増え、風向きが変わり始めた。「かわいい」と肯定する意見が広がりつつある中、後押しする出来事が起きる。

 ステージ上で切れのあるダンスを披露し、時に愛くるしいしぐさを見せる……。一挙手一投足に、家族連れらが詰めかけた会場は大いに沸いた。08年8月。開幕まで500日となった記念イベントで、せんとくんの着ぐるみがデビューした。平城遷都1300年記念事業協会で「せんとくん担当」だった元奈良県職員の田中敏彦さん(73)は「着ぐるみなのに人格が宿っているかのように生き生きとしている。これはいける」と確信した。

 全国からイベントなどへの出演オファーが相次ぎ、海外進出や、NHK紅白歌合戦への出演も果たした。企業からの協賛金は急増し、グッズの売り上げも大きく伸びた。

 1年にわたって開催された平城遷都1300年祭には1700万人以上が訪れ、せんとくんによるPR効果は200億円以上と試算された。「仏教への冒涜(ぼうとく)」とまで言われたのがウソだったかのように、せんとくんは成功の立役者となった。

初の仏像修復で運命的な出会い…作品発想の根幹

 屈指の人気キャラを生み出した籔内さんの歩みもまた、平たんではなかった。

 1953年、大阪市阿倍野区に生まれた。絵を描くことが好きで、小学校に入る前から、「絵描きさんになる」と宣言していた。進んだ公立の進学校では「落ちこぼれ」だったが、美術が得意だったことが唯一の救いだった。担任からは「うちには美大受験のデータはないから、君は好きにやってくれ」と優しく突き放された。東京芸術大の油絵専攻の受験は2度にわたって失敗。倍率の低かった彫刻科を受験して合格した。

 学び始めると、彫刻の魅力に引き込まれた。「自分で研いだ彫刻刀でヒノキを削る感触、音、香り、すべてに夢中だった」。大学院まで6年間、彫刻と向き合う日々を送ったが、「この先どう生活していこうか」と我に返った。

 当時28歳。学内を見渡してみると、仏像修復と古典技法を研究する研究室があることに気付いた。「なんか食っていけるんじゃないかな。仏像修復をしていれば」。自身でも甘い考えだったと思う。しかし、この選択が彫刻家としての根幹を育んだ。

 仏像の構造や作り方を一から学び、合理的で洗練された技法に驚いた。研究室に入った翌年、初めて本格的な仏像修復に取り組んだ。新薬師寺(奈良市)の「景清地蔵」。研究室に運び込まれた傷んだ仏像をX線で撮影した時だった。「なんだこれは」。本来あるはずのないわきの下の空間がうつった。解体してみると、裸形像の上に衣を着せるように装飾された特異な二重構造が見つかった。中からは、ゆえんを示す文書までが出てくるという他にない貴重なものだった。「鎌倉時代のままの空気が残っていることに感動した」。手探りでの修復は1年に及んだ。

 運命的な出会いをきっかけに、作品作りに通底する「仏教的世界観」が自然と体に刻まれていった。

 研究室に進む時、師事しようと思っていた先生がいた。しかし、先生は入る直前に去ってしまった。後任でやってきたのが、日本画の巨匠・平山郁夫さん(1930〜2009年)だった。

 「雲の上の存在であり、憧れであり、畏れ多い存在」。具体的な助言や指示をされた記憶はない。それでも、揺るがぬ地位を築きながら、教育の現場に立つ背中から、「もらった『徳』を分け与え、伝える姿勢」をひしひしと感じた。その姿は、自身の指針となった。

 ある時、平山さんから一人の画商を紹介された。その画商から「お客様から求められる作品を作るように」と助言された。「大学では自分の好きに作りなさいと言われてきたが、そうではないのか」。芸術の世界で身を立てていく心構えが、腑に落ちた。

 助言から生まれたのが、せんとくんの源とも言える童子シリーズだった。子どもが持つかわいらしさの「共通項」を形にし、客からは「自分の子どもに似ている」「孫がこんな顔をしている」と喜ばれた。バブル景気で美術界が盛り上がっていたことも後押しし、彫刻家として駆け上がっていくことになる。

ミャクミャクと“同類”コラボ、不動の人気者に

 せんとくんは、自身にとって「最大のヒット作」だ。「せんとくんの生みの親です」。そう自己紹介すると、多くの人がわかってくれる。でも、様々な作品を生み出してきた自負がある。せんとくんがすべてではない。「他にもいろんなことをしてきたのになって。冗談半分ね」。うれしさと、少しのさみしさがつきまとう。

 世に残すのは作品だけではない。後進の育成も平山さんの背中から学んだ役割と考え、母校の大学院の教授として、文化財保存を学ぶ学生たちの指導を担ってきた。

 心がけたのは、学生たちに挑戦する機会を与えることだった。初めての修復から貴重な仏像を担当させることも認めていた。指導を受けた藤曲隆哉さん(43)は「文化財の修理は失敗できない世界。それでも難しいことを『できないだろ』と言わず、チャンスを与えてくれる懐の深さがあった」と話す。

 学生たちが研究や制作に打ち込めるよう、自費で廃校を借り、作業スペースを提供。教え子の成長を見守った。

学生に「美」伝えたい、今が「一番勉強」

 2021年3月末で定年退職。その後、23年に新設された「ビューティ&ウェルネス専門職大学」(横浜市)から声がかかった。エステティシャンを志す学生が多く在籍する専門職大学。「何を目的に美容を学ぶのかを学生たちが気付くように教えてほしい」。運営法人の理事長から教授就任を打診された時、「根幹にある美は同じ」と迷いはなかった。

 しかし、同じ「美」でも、感じたものを独自に表現する芸術家と、人を美しくするサービス業の美容の世界は、やはり違った。これまで指導してきた大学院生は、自身の進むべき方向性が定まっていたが、今、向き合うのは、これから何をしたいかを模索中の学生たちだ。

 「反応はあんまりよくない。おじいちゃんが孫に昔話をしている感じ」。美術という共通の基盤がない若者に「美とは何か」をどう伝えればいいのか。本を読み、考え、今が人生で一番勉強しているような気がする。

 せんとくんは、同じようにバッシングからスタートした大阪・関西万博の公式キャラクター「ミャクミャク」とのツーショットポスターでも話題を集めた。奈良県の公式マスコットキャラクターとして不動の地位を築く。

 大きく育った「我が子」の姿を、少し離れた場所から見守りつつ、自身も芸術の道を歩み続けていく。

 まえかわ・かずひろ 2020年に入社し、奈良支局を経て24年10月から大阪社会部。奈良では15周年を迎えたせんとくんにインタビューした。現在は籔内さんが高校時代まで過ごした堺市の担当で、縁を感じている。28歳。