「麻紀さん、ちょっとヒカルをあずかってくれる?」 カルーセル麻紀を驚かせた「藤圭子」からの頼みごと 「すごい才能があるのよ。楽しみなの」とも
夕刊紙・日刊ゲンダイで数多くのインタビュー記事を執筆・担当し、現在も同紙で記事を手がけているコラムニストの峯田淳さんが俳優、歌手、タレント、芸人ら、第一線で活躍する有名人たちの“心の支え”になっている言葉、運命を変えた人との出会いを振り返る「人生を変えた『あの人』のひと言」。第56回は歌手・藤圭子さん。宇多田ヒカルさんの母であり、壮絶な人生を歩んだ藤さんの素顔を知ることができる、とっておきの秘話です。
【写真】突然の悲報に騒然とする現場…いまも聴かれ続ける名曲と忘れられない歌声
壮絶な人生
あの衝撃は今でも忘れられない――。
2013年8月22日、テレビを見ていたらテロップが流れた。藤圭子(享年62)が「マンションから飛び降りか」――。この時のことを、藤を「純べえ」と呼んでいたカルーセル麻紀(83)は、15年に出した自叙伝『酔いどれ女の流れ旅』(財界さっぽろ刊)でこう書いている。

〈昼間、自宅でDVDを見ていて、チャンネルを読売テレビの「情報ライブ ミヤネ屋」に切り替えた時です。いきなり「藤圭子」という文字が目に飛び込んできました。「また結婚でもしたのかしら」と思っていたら、次の瞬間「マンションから飛び降りか」のテロップ。しかも、現場が東京の西新宿だったから、さらに驚きました〉
不遇な生い立ち、世の不幸を一身に背負った女の怨念のように聴こえる低音のハスキーボイス、何度か繰り返した結婚、離婚、ギャンブル騒動……。その人生を改めて並べたてても、薄っぺらいものにしかならないと思いつつ、それでも、あの日のことは「驚き」という言葉でしか表現できない。
両親がいなかった筆者にとって、多感な10代のころ、「圭子の夢は夜ひらく」の歌詞は胸に突き刺さった。
♪十五、十六、十七と 私の人生暗かった〜
でも、藤にはその後、明るい人生もあったはずだが、なぜ……。
1969年に「新宿の女」でデビュー。「女のブルース」「命預けます」「京都から博多まで」と、70年代前半にはヒットを連発した。71年に歌手の前川清と結婚したものの、翌72年には離婚し、74年には喉のポリープの手術。79年にいったん引退を発表し、82年にマネージャーで、当時はミュージシャンをやっていた宇多田照實氏と結婚、翌83年に宇多田ヒカルが産まれた。
この間の藤の姿は、ポツンポツンと点でしか記憶にない。その時々に脳裏に浮かぶのは「十五、十六、十七と〜」の、あの絶望的なフレーズだった。
現場は、タクシーなら自宅から数分だった。取るものもとりあえず駆けつけた。
また西新宿か……西新宿の高層ビルには嫌な記憶があった。その8年前、同様にポール牧が命を絶った。現場に到着し、マスコミが騒がしい中、飛び降りたというマンションを見上げた。あんなところから? ついさっきまでここに藤圭子の遺体があったのか? これは現実なのだろうかと思うしかなかった。
ふと、頭に浮かんだのがカルーセル麻紀だった。カルーセルとお付き合いのあるライターが、確かカルーセルと藤圭子の話をしていたたはずだ……。そこで急ぎ「藤圭子の追悼の連載をやってもらえないか聞いてほしい」と連絡したところ、すぐにOKをもらい、8回の緊急連載が実現した。タイトルは「カルーセル麻紀の藤圭子とヒカルの秘密」。
「ちょっと今日、麻雀だから、ヒカルをあずかってくれる?」
先に前掲書から。
〈藤圭子の本名は阿部純子。私は「純ちゃん」とか「純べえ」って呼んでました。40年以上前です…初めて会ったときの純べえは、おかっぱで色白。目がパッチリしていて、日本人形みたいでした。いつもジーパンにTシャツというラフな恰好で…〉
〈純べえは気が強くて、余計なことは話しません。前川さんとの結婚話、貧しかった北海道時代など、周囲にプライベートを口にすることは、ほとんどありませんでした。たとえば、テレビの歌番組になんか出ても、出番前は一人ポツンと座っていました。自分で見えないバリアを張っているかのようでした〉
藤圭子といったら、多くの人がイメージする姿そのまま。やはり普段からそうだったのだ。
カルーセルが思い出してくれた貴重なエピソードは、娘の宇多田をあずかったことがあるという記憶。連載では真っ先にその時のことを語ってくれた。
2人は当時、同じ芸能プロに所属していたが、交流が途絶え、その後、テレビの歌番組で再会した。その時にヒカルを連れてきていた藤にこう言われたという。
〈「麻紀さん、ちょっと今日、麻雀だから、ヒカルをあずかってくれる?」って言われたの。私が赤ちゃんを!? って思ったけど、「終わったら、迎えに行くからお願い」って言われ、仕方がないから、引き受けたわよ〉
ヒカルが2、3歳。子育ての経験がないカルーセルは姉と子守りをした。
そんな関係だから、藤はカルーセルには胸襟を開いていた。藤と母・澄子との確執は知られているが、こんな風に言っていた。
〈「目が悪くって大変なのよ」って言ってました。「新宿の女」を出した時はお母さんの手を引いて、ギター片手に新宿の街を流して歩いたんだから〉
ヒットを連発はしたものの、喉の手術をし、その後、引退宣言したが、その原因についても語っている。当時ついていた評判の悪いマネージャーが引き起こしたダブルブッキング騒動だというのだ。「あの女だけは許さない!」とカルーセルが怒りをあらわにしたという。
「才能があるの!」
しかし、救われた気がしたのは娘・ヒカルとのエピソード。90年代に藤は宇多田照實とヒカルと家族ユニット「U3」を結成。96年には「藤圭子 with Cubic U」として「冷たい月〜泣かないで〜」を発表し、精力的にプロモーション活動を行った。
その時、一緒にいたカルーセルは、藤にこう言われたという。
〈いきなり純べえが「麻紀さん、このバックコーラスの声、ヒカルなのよ。麻紀さんにあずけていた、あのヒカルなの。すごい才能があるのよ。楽しみなの」って、とってもうれしそうに言っていた…ヒカルが13歳ぐらいの時よ〉
鮮烈なデビューシングルとなった「Automatic」の発売はヒカルが15歳の時。娘の才能を真っ先に見抜いていたのは母だったということか。
藤圭子にとっての一生は母・澄子、自身、ヒカルの女たちの物語だった。
峯田淳/コラムニスト
デイリー新潮編集部
