『あんぱん』写真提供=NHK

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 最終回を前に振り返ると、NHK連続テレビ小説『あんぱん』は嵩(北村匠海)が「逆転しない正義」を探す夫婦の物語であると同時に、朝田三姉妹が戦争によって失ったものをそれぞれの形で取り戻していく物語でもあった。

参考:『あんぱん』第120話、のぶ(今田美桜)が琴子(鳴海唯)からの手紙を読んで言葉を失う

 その歩みに寄り添ってきたのが、数々の言葉たちだ。台詞を超えて、時代を生き抜くための哲学や人生の指針として響いてきたフレーズを、改めてここで振り返りたい。

のぶ(今田美桜)「たまるかー!」

 まず最初に思い出されるのは、のぶ(今田美桜)の「たまるかー!」という叫びだ。第65話では、新聞社の入社試験に合格した瞬間、校舎を飛び出したのぶが「たまるかー!」と何度も声を張り上げ、勢いそのままに駆け抜けていくシーンがあった。両手を大きく振りながら涙ぐむ姿に、夢を掴んだ喜びと未来への昂揚感がそのまま凝縮されていたのだろう。驚きと歓びを一気に爆発させるこの一言は、ヒロインの感情の純度を最も鮮やかに伝える瞬間として、視聴者の耳に深く残った。

のぶ(今田美桜)「いごっそうになれ!」 また忘れてはならないのが「いごっそうになれ」という励ましだ。「いごっそう」とは土佐弁で“思い込んだらがんとして動かない頑固者”を意味する。神社の石段を必死に登る嵩に、のぶは笑いながら「いごっそうになれ!」と声をかけた。のぶは「はちきん」と呼ばれる、思い立ったらすぐ行動する奔放な性格。一方の嵩は、じっと耐えながら力を蓄える粘り強さを持つ。対照的な2人を映し出したこの言葉は、互いを補い合う関係性を象徴していた。感情を表に出せない嵩に代わって、のぶが怒り、泣き、笑ってくれる。それが彼を奮い立たせ、漫画家を志す背中を押す力となっていく。

のぶ(今田美桜)「たっすいがー」 のぶが嵩に投げつける「たっすいがー」も作中では多く登場してきた。就職面接で自分を卑下してばかりいる嵩に、のぶは「ほんま、たっすいがー!」と声を荒げる。その響きに込められていたのは罵倒ではなく、「もっとしっかり生きてほしい」という願いだった。戦地から帰還した嵩を前に、のぶが涙ながらに「たっすいがーの嵩のくせに、どればぁ心配したと思うちゅうがで。死ぬばぁ心配して損したわ」と叫んだ場面では、叱責と安堵と愛情がないまぜになった土佐弁の響きが胸を打つ。標準語では言い尽くせない複雑な感情が、この夫婦の絆を浮かび上がらせていた。

結太郎(加瀬亮)「女子も大志を抱け」 物語を方向づけたフレーズといえば、のぶの父・結太郎(加瀬亮)が娘たちにかけた「女子も大志を抱け」だろう。「女子も大志を抱け。好きなことをやりなさい」と語る結太郎の姿は、当時の視聴者に強い印象を残したに違いない。女性が自由に夢を語ることすら難しかった時代に、この言葉は三姉妹の未来を大きく切り拓いた。のぶは教師を目指して上京し、蘭子(河合優実)はライターとして独立し、メイコ(原菜乃華)は母として家庭を守る。三人三様の「大志」が描かれることで、“こうでなければならない”という固定観念を打ち破るメッセージとなった。彼女たちの姿を通して、視聴者もまた「自分の大志は何か」を問い直すことになる。

嵩(北村匠海)「逆転しない正義」

 そして『あんぱん』全体を貫いた核心が「逆転しない正義」である。戦地から戻り、生きる意味を見失った嵩は、のぶにこう語る。「もし逆転しない正義があるとしたら……全ての人を喜ばせる正義」。戦時中には「国のため」とされた行為が、敗戦後には「罪」とされる。正義と悪が時代の都合で容易に反転してしまう現実を前に、嵩が見いだしたのは立場や時代に左右されない普遍的な正義だった。その思想がやがて『アンパンマン』に結実する。ヒーロー誕生の裏側に、戦争体験と哲学的葛藤があったことを示す場面だ。

千尋(中沢元紀)「お国のために死ぬより、わしは愛する人のために生きたい」

 その源にあるのは、弟・千尋(中沢元紀)の最期の言葉だ。「お国のために死ぬより、わしは愛する人のために生きたい」。出征前夜に兄に託された願いは、嵩の心に深く刻まれた。戦争が個人の幸福を奪い去る不条理を突きつけるこの言葉が、嵩を「逆転しない正義」へと駆り立てた。哲学的な問いであると同時に、弟の死を無駄にしないための贖罪と愛の継承でもあったのだろう。千尋の言葉が響き続けたからこそ、嵩は新しい人生に踏み出す力を得られたのだ。

 これらの台詞は登場人物の背中を押し、ときに支え合うための拠り所だった。のぶや嵩がその言葉に導かれて進んできた姿は、観ている私たちの心にも静かに重なってきた。最終回を前に改めて思うのは、『あんぱん』がずっと“言葉の力”で物語を紡いできたということだ。土佐弁の温もり、戦争を経て生まれた深い問いかけ、そして親から子へ受け継がれていく願い。それらの言葉がつないできたのは、人が生きるために頼りにする小さな希望だった。時代が移り変わっても、人を励まし続ける言葉が確かに存在する。その延長線上に『アンパンマン』が生まれ、今も多くの人の心を支えている。『あんぱん』は、その原点を優しく思い出させてくれる物語だった。(文=川崎龍也)