「花魁の美しさ」でも「教養の高さ」でも「劣悪な労働環境」でもない…江戸の遊女に来日した西洋人が驚愕したワケ

■NHKで流れた「吉原の女郎はいい女」の意味
偽板(海賊版)を摘発された鱗形屋孫兵衛(片岡愛之助)に代わり、蔦重こと蔦屋重三郎(横浜流星)はいよいよ自分が板元(出版元)になって、吉原のガイドブック『吉原細見』を出していく決意をかためた。NHK大河ドラマ「べらぼう〜蔦重栄華乃夢噺〜」の第7回「好機到来『籬の花』」(2月16日放送)。
蔦重はこれまでの2倍の部数を売るために、制作費を半分に抑えて価格を下げ、同時に内容の充実を図る。ところが、地本問屋(江戸で出版された地本を企画、制作、販売する本屋)たちはあの手この手で蔦重の邪魔をする。
吉原の女郎屋や、客を女郎屋に案内する引手茶屋の主人たちは、当初は蔦重が板元になれば、吉原が自前の地本問屋を持つようなものだからと歓迎していた。しかし、やっかいな邪魔に耐えかねた主人たちは蔦重に、板元になるのはあきらめるように諭した。このときの蔦重のセリフが印象的だった。
「女郎の血と涙がにじんだ金を預かるなら、女郎に客が群がるようにしてやりてえじゃねえですか。吉原の女郎はいい女だ、江戸で一番の女だって、胸張らしてやりてえじゃねえですか」
■吉原の女郎と外国の娼婦との違い
結果的に、安くて見やすい『吉原細見 籬の花』をバカ売れに導いた蔦重。そんな彼がいった「女郎の血と涙がにじんだ金」とは、いうまでもなく、女郎が客の男性に体を売って稼いだ金のことである。
吉原の女郎とは、早い話が娼婦であり、娼婦とは売春に従事する女性を指す。売春は「世界最古の職業」といわれ、男性の性欲があるところ、すなわち人間が居住するありとあらゆるところで行われてきたと思われる。だから、世界の娼婦のあいだには共通点も多いが、じつは、違いが際立つ点も少なくない。
漠然と述べていてもわかりにくいので、ここでは吉原の女郎を19世紀パリの高級娼婦とくらべてみたい。
吉原の女郎たちがもっとも特徴的なのは、娼婦という職業が世界的に差別されがちななか、あまり差別されていなかったという事実だろう。そこで働くことがいかに苦しいか、よく理解されていたことが背景にある。
吉原の女郎のほとんどは、親の借金の担保だった。表向きは奉公ということになっているが、事実上、経済的に困窮した親が娘を女郎屋に売り渡していた。だから、客が年季証文を高額で買いとって身請けしてくれないかぎり、客をとるようになってから原則10年は「年季奉公」する必要があった。
それが「苦界十年」と呼ばれたのだが、10年間、勤め上げられればまだマシで、日々性病などのリスクにさらされ、20歳そこそこで命を落とすことが非常に多かった。
■足を洗った女郎が結婚
要するに、吉原には自分の意思で女郎になった女性などほとんどおらず、当時の江戸の住人たちはそのことを知っていた。ましてや「男が好きだから女郎になった」などと不遜な解釈をする人間は、まずいなかった。自分の身を犠牲にして家族を救おうとしている親孝行者、というのが女郎に対する一般的な認識だったのである。
今西一氏は『遊女の社会史』(有志舎)に、元禄時代(1688〜1704)に長崎のオランダ商館にやってきた医師、エンゲルベルト・ケンペルの言葉を引用し、こう書いている。「ケンペルは、日本では娼婦が普通に結婚していることに驚いている。当時のヨーロッパの娼婦では考えられなかったことであり、娼婦は賎民として差別されていた」。
安永4年(1775)、すなわち蔦重が『吉原細見 籬の花』を刊行した年に来日したスウェーデンの植物学者、カール・ツンベルクも『江戸参府随行記』に、女郎として働いた女性が差別のまなざしを向けられることなく、ふつうの結婚をしていることを「まったく奇異」だと記している。
実際、日本では、吉原の女郎など妻にできない、という意識は男性のあいだで希薄だったようだ。「べらぼう」でも今後、花の井(小芝風花)を妻にしたいと願う蔦重の姿が描かれるはずである。しかし、ヨーロッパでは、元娼婦が一般人と結婚するということは、ほとんど考えられなかった。
■ヨーロッパでは「道を踏み外した女」
イタリアの作曲家ジュゼッペ・ヴェルディのオペラ『椿姫(ラ・トラヴィアータ)』(1853年初演)では、ヒロインの高級娼婦ヴィオレッタは、ブルジョワの青年アルフレードと恋仲になって同棲するが、ある日、アルフレードの父が訪ねてきて、息子と別れるように言い渡す。彼女はそれを受け入れたのち、肺病が進行して命を落とす。
オペラの原作は、アレクサンドル・デュマ・フィスが実体験をもとにして書いた小説『椿を持つ貴婦人(椿姫)』(1848年)で、こちらもヒロインの境遇は同じである。つまり、いったん娼婦に身を落とした女性は、どんなに望んでも一般社会に受け入れてもらえない、ということがテーマになっている。

ちなみに、オペラのタイトルにカッコ書きで「ラ・トラヴィアータ」と書いた。オペラに関しては『椿姫』は日本における通称で、正式名称は「ラ・トラヴィアータ」。「道を踏み外した女」という意味で、ヨーロッパにおける娼婦の位置づけを物語っている。
そう呼ばれる理由は、彼女たちが吉原の女郎と違って、自分から進んで娼婦という職業を選んだからだった。
■パリに娼婦が溢れたワケ
とはいえ、よろこんでその道を選んだわけではない。当時のフランスでは結婚の際、新婦の側は持参金を用意する必要があり、裕福なブルジョワ同士なら問題がなかったものの、貧しい庶民にはそれが困難で、そんな家庭の娘はやむなく修道院に入るケースもあった。
10代のはじめごろから働き、持参金を貯める方法もあったが、彼女たちに許された労働はメイド、洗濯女、お針子、花屋の店員などかなりかぎられ、しかも賃金は男性の半分以下だった。そんな環境で女性が手っ取り早く収入を得る道が、自分の体を売ることだった。
その結果、当時のパリには娼婦があふれた。娼館に所属する娼婦と、所属せずに個人営業する娼婦がいて、ともに梅毒の蔓延を防ぐため定期的に健康診断を受けさせられた。加えて、そういう娼婦とは一線を画した高級娼婦がいて、その一部は王侯貴族のような贅沢な暮らしをしていた。
もちろん、高級娼婦への道は狭き門で、よほどの美人であるのに加え、パトロンを飽きさせないために文学や美術、音楽などの教養があって、話題が尽きない必要があった。しかし、それでも決定的に差別され、『椿姫』のヒロインのように「道を踏み外した女」として、一般家庭に受け入れられることはなかったのである。
■差別されたのは「忘八」
教養が必要な点は吉原の女郎も同じだった。とくに吉原が現在地(台東区千束)に移転する前、中央区日本橋人形町にあったころは、大身の武士や文化人の客が多かったため、「太夫」と呼ばれた高級遊女は、美貌に加えて教養を身につけている必要があった。だから、女性の識字率が低かった時代に、吉原の女郎たちはほぼ全員、読み書きができたという。

その後は一時期ほどではなくなったが、「商品価値」が高い女郎には教養や知識があった。書道、生け花、茶道、和歌、俳句、琴、三味線、囲碁、将棋……と対象も幅広かった。
その点はパリの高級娼婦と共通しているが、いちばん違ったのは、吉原の女郎たちは年季証文があるかぎり、足を洗いたくても洗えなかったことである。逃げればもちろん、サボっても苛烈な折檻が待っていた。
だが、だから同情され、差別されなかったのである。むしろ、差別されたのは女郎屋や引手茶屋の主人だった。彼らは「仁、義、礼、智、孝、貞、忠、信」の八徳を失った者という意味で「忘八」と呼ばれたが、実際、貧しい親がやむにやまれず売った娘たちを、情に流されることなく徹底的に商品としてあつかった。
■だからNHK日曜20時で放送できた
このため、女郎たちは「苦界十年」を余儀なくされたが、一方で、自由がないかわりに非難や差別が向けられずに済んだ。
彼女たちが「解放」されるためには、外国の圧力が必要だった。明治5年(1872)、横浜港に停泊中のペルー国籍の船、マリア・ルス号内で働く清国人を、日本政府は奴隷だとして解放した。この件は日本初の国際裁判となり、そこでペルー側から、「日本はペルーの奴隷に反対するが、日本にも遊女という奴隷がいるではないか」と指摘された。
これを受け、同年12月に明治政府は「芸娼妓解放令」を発することになった。その後も吉原をはじめ遊郭は残るが、長く同情され、「親孝行者」と評価された女郎たちの立場は、良くも悪くも変化することになった。
だが、「べらぼう」で描かれる蔦重の時代の女郎たちは、周囲から同情された「親孝行者」である。春を売る職業の女性たちが、日曜のゴールデンタイムに放送される大河ドラマにぞろぞろ登場しても、それほど違和感がないのは、来日した西洋人たちが驚いたように、「親孝行者」である彼女たちが欧米の娼婦のような差別を受けていなかったからである。
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香原 斗志(かはら・とし)
歴史評論家、音楽評論家
神奈川県出身。早稲田大学教育学部社会科地理歴史専修卒業。日本中世史、近世史が中心だが守備範囲は広い。著書に『お城の値打ち』(新潮新書)、 『カラー版 東京で見つける江戸』(平凡社新書)。ヨーロッパの音楽、美術、建築にも精通し、オペラをはじめとするクラシック音楽の評論活動も行っている。関連する著書に『イタリア・オペラを疑え!』、『魅惑のオペラ歌手50 歌声のカタログ』(ともにアルテスパブリッシング)など。
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(歴史評論家、音楽評論家 香原 斗志)
