『チ。』主人公が交代していく“真意”とは? 反知性の象徴となったノヴァクの役割
『チ。-地球の運動について-』(以下、『チ。』)という作品の特徴は、主人公が交代していく構成にある。
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それぞれの主人公に、直接のつながりはない。血筋でもかつての仲間とかでも何でもない、赤の他人が物語を引き継いでいく構成になっているわけだ。たが主人公たちは、時を経て地動説への巡り合わせを通じて数奇な繋がりを持つようになる。物語の構成としては、異色のタイプと言える。必然的な関係を持たない人々が偶然に、奇妙につながっていくこの構成が、本作に強い説得力を与えている。考えてみれば、それは我々の生活でいつも起きていることでもあり、歴史とはそういうものであるからだ。
●主人公が交代していく真意 最初の主人公は12歳のラファウ。神童と謳われこの年で大学に飛び級しようとしている彼は、異端の研究者フベルトに触発されて、地動説を美しいと感じてしまう。彼はフベルトの意思を継ぎ地動説の研究をするが、義父のポトツキに密告され、異端審問官のノヴァクに捕らえられる。
フベルトはポトツキの教え子であり、この意思の引き継ぎには、ポトツキを介した必然性が存在する。しかし、ラファウは12歳で自死を選び、自らの研究成果を石棺に残して、この世を去ってしまい、ここで必然の繋がりは途絶えてしまう。1人目の主人公が亡くなり、10年後、2人目の主人公であるオクジーがラファウの石棺にたどり着き、修道士で研究者のバデーニ、天文研究助手のヨレンタらが、ラファウの残した地動説の意思を受け継いでいく。
ラファウは死の直前、異端審問官のノヴァクに対して言う。「敵は手強いですよ。あなた方が相手にしてるのは僕じゃない。異端者でもない。ある種の想像力であり、好奇心であり、逸脱で他者で外部で、畢竟、それは知性だ。あれは流行り病のように増殖する。宿主にさえ制御不能だ」と。
このセリフをセリフだけに終わらせず、物語の構成自体で表現していることに、本作の優秀さがある。本作は、主人公は交代していくが、悪役であるノヴァクは交代しない。彼が相手にしているのは、その都度別の人間たちだが、まさにラファウの言うように、相手が誰なのかは本質ではないのだ。流行り病のように誰かに感染していく創造力や好奇心こそが、本当の主人公であり、それは身分や性別、人種に関係なく受け継ぐ意思のある者が受け継いでいくものだということを、構成によって主張している。
受け継がれていく知性に相対する反知性の象徴が、ノヴァクである。だから、彼の役割は誰にも受け継がれていかない。この好対照によって、本作の主張は力強さを持つように設計されている。
●意思を受け継ぐための媒介としての言葉 その地動説の意思を受け継がせる媒介となるのが「文字」だ。本作は好奇心と想像力の賛歌であり、同時に言葉の威力を描く作品でもある。
文字の読めないオクジーが、文字が読めるというのはどんな感覚なのかとヨレンタに尋ねる。ヨレンタは「文字は奇跡だ」という。「2000年前の情報に涙が流れることも、1000年前の噂話に笑うこともある。文字に残った思考はこの世に残って、ずっと未来の誰かを動かすことだってある」。
実際にこの物語は、何十年の単位で見ず知らずの者が書いた文字に人生を変えられた者たちを描いた作品だ。このヨレンタの台詞が強烈な説得力を帯びるのも、主人公が見ず知らずの人間たちの言葉に感化されてゆく構成があるからだ。
ヨレンタの言うように、文字がなければ私たちはその時代と場所に閉じ込められる。文字は人を自由にするのだとこの物語は教えてくれている。振り返ってみれば、私たちの人生にも、なんの関係もない、時代も共有していない人物の残した言葉や創作に勇気づけられたりすることがあったはずだ。
この原作マンガも、世界に何か大切なものを残すために描かれているだろうし、アニメも同様だ。そして、この作品のために原稿を書いている筆者もまた、その繋がりの一部なのだ。『チ。』は、そう思わせてくれる作品なのだ。
最近加速度的に環境が悪化し、広告だらけで読みにくいことこの上ないウェブに原稿を発表して、一体だれが読んでくれるのだろうと、ネガティブな気持ちになることが多々あるのだが、それでもこうして筆者は書いている。それは、『チ。』のような作品が、書くことの希望を思い出させてくれるからだ。
●歴史とは今わかっていることが全てではない 本作を視聴する際の注意点の一つは、これは地動説を題材にしたフィクションであるという点だ。この物語は史実にあったことではなく、歴史を正確に描写しているわけではない。
しかし本作は、それでも我々が歴史を学ぶときの重要な一側面を反映している。なぜなら、歴史とは「今のところ、わかっている事実」を基に編纂されたものに過ぎないのであり、過去の森羅万象全てではないからだ。
歴史に対して『チ。』と同じ精神を持った作品として、筆者は湯浅政明監督の『犬王』を挙げたい。『犬王』は記録がほとんど残っていない伝説の能楽師を描く作品だが、湯浅監督は大胆にも室町時代の能楽師をロックスターのように描いてみせた。湯浅監督は筆者のインタビューでこう語っていた(※)。
湯浅:何万年もの人類の歴史、何百億人の人間の行動をぜんぶ把握することは不可能です。現代社会だってすべてを知ることはできません。
<中略>
湯浅:時代考証はたしかに重要です。しかし、考証できる部分は、過去のほんの一部分でしかないんです。その狭い範囲で作品をつくるのは、偏見を持って過去の人々を見ているとしかぼくには思えません。
ぼくは、この作品を数百年前に生きた人々に成り代わってつくったつもりです。「なめるな、俺たちがそんな程度のことしか考えなかったと思っているのか」と。
コペルニクスが『天体の回転について』を書く以前から、地動説を研究した無名の人物はきっといただろう。湯浅監督が言うように、歴史で証明されているものは、過去のほんの一部でしかない。ほんの一部しか私たちは知らないのだという前提に立って、知らない部分に想像力を向けることこそ本当の意味で歴史を尊重することだと、湯浅監督は考えている。
『チ。』もまた、そのような姿勢で描かれた作品だと筆者は見ている。天動説が支配する時代に、ラファウたちが地動説という別の可能性を信じたように、歴史に対して、私たちも別の可能性を考えるべきではないか。
というか、その方が楽しいし、美しいと筆者は思うのだ。すでに判明している事実の尊重も重要だが、それと同じくらい、別の可能性を想像することも重要だと思っている。
ラファウの残した言葉が、全く見ず知らずの人間の心を動かしたように、このマンガとアニメも、作り手たちの知らない誰かを動かすだろう。そして、筆者の書く文章もまた、知らない誰かを動かす力になってくれれば幸いだ。この作品は、そのか細い希望は信じるに値するものだと背中を押してくれるのだ。
参照※ https://www.jff.jpf.go.jp/article/masaakiyuasa/(文=杉本穂高)

