Adoが語る不登校と学校論--「社会と乖離していく自分が恐ろしかった」《学校の一番のかたちとは?》
経済学者・成田悠輔氏がゲストと「聞かれちゃいけない話」をする対談連載。第13回目のゲストは、歌い手のAdoさんです。自身の辛い思い出として「不登校であったこと」を語るAdoさんは、学校について、どのような考えを持っているのでしょうか。(構成・伊藤秀倫)
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不登校と学校論
成田 学校って、Adoさんにとってどういう存在ですか。というのは、今、不登校が爆増してて“社会問題”ってことになってますよね。もちろんその中には、心身の不調や貧困、虐待などで行けなくなっている人もいますが、積極的で能動的な不登校も増えてます。Adoさんみたいな歌い手が生まれてきた背景とも関係していると思うんです。
学校でみんなが同じことを同じ空間と速度でやらなくても、それぞれやりたいことをやりたいように学ぶ場所、作る場所、伝える場所がある時代です。古臭い学校なんて行きたくなくなって当然、存在意義なしと片付けることもできそうです。そういう時代にAdoさんから見て学校ってどういう存在なのかなと。

Adoさん
Ado 私は学校自体はあったほうがいいかなと思っていて。けれど、別に誰かに合わせる必要もないですし、同じ勉強、同じ時間を、同じ年代の人たちと過ごすのは、確かに一見息苦しいというか、海外の教育とかと比べたりすると、堅苦しく見えてしまうかもしれません。
もちろん私にとって、学校のつらい思い出もあります。でも、つらかったとしても、経験として、じゃあなかったほうがよかったかと言われたらそんなことはないです。
やっぱり子どもにとって、最初に学ぶ「社会」は学校のクラス。小さな社会だからこそ、自分が振り返った時に、自分は学校という社会にとってはこういう特色を持った人間なのだな、ということが分かりました。
学校としての「一番のかたち」とは?
学校には確かに途中から通わなくはなりましたが、じゃあずっと家にこもっていたほうがよかったかと言われたら……。もちろん自分の時間ができて、その分、歌も歌えたので、今のAdoにとってはとてもよかったかもしれませんが、社会と乖離していく自分もちょっと恐ろしかったなとは、今振り返ると思います。
全員が全員、社会になじんだほうがいい、なんていうのはおこがましいですけれども、やっぱり人間は誰かと誰かでできている。自分の感覚だけで生きてしまうと、どうしてもうまくいかないこともある。自分の感覚だけとなると、どうしても殻に閉じこもりやすくなり、人間として少しだけ生きづらくなってしまうところもある。
社会や他人を学べる場所は、SNS以外にもあったほうがいいのではないのかなと思ったりもしますね。誰とも触れ合わなくても外に出ることは、私なりに行ってはいました。それで、社会や他人と触れ合って、自分というものが何なのか、人間社会というものが何なのかを体感できた。何かを学ぶというよりは、自分なりに体感できる場所であることが一番なのかなと。
それが学校としての一番のかたちかなと思ったりはしますし、学校じゃなくてもそういう場所があったらいいのかなと思ったりはします。
成田 ネットもSNSもAIも自在な繋がりが飽食だからこそ「たまたま近所に同じ時期に生まれてしまっただけの理由で、分かり合えない他人と生活を共にする」という意義が学校に生まれているのかな、と。不自由さと不快さの提供です。
Ado そうですね。本当に1人で生きていくことは、やっぱり人間は難しいかなと思います。自分という殻にばかり集中してしまうと、どうしても時に他人とぶつかり合ってしまって、さらにまたちょっと苦しくなってしまうこともあると思うので。
とはいえ、だからといって「学校に通えばいい」とは私は思わなくて。人というものに触れずとも、他人を感じる、他人を見るでもいいですし、勉強したことをアウトプットじゃないですけれど、実際に体感できる場所。自分で考える、何かを見て考えるという時間は、学校であっても学校じゃなくても、結構必要かなとは思いますね。
※約8000字の全文は、月刊文藝春秋のウェブメディア「文藝春秋PLUS」に掲載されています(Ado×成田悠輔「『感じたことのない波動を浴びたのは南米』Adoがワールドツアーで圧倒された出来事」)。全文では、以下の内容が語られています。
・歌い手として、人間として、Adoの終わり方
・マイケル・ジャクソンの破壊力は凄まじい
