女優として第一線を走り続けた20代、30代。財前直見さんは、誰もが羨むキャリアを築く中、41歳のときに故郷である大分県に移住をしました。きっかけは、都会で直面した「鯛が予約なしでは買えない」という小さな違和感。キャリアの脂が乗り切った時期の決断でしたが、そこには「息子のあらゆる瞬間の、第一目撃者でありたい」という迷いのない願いがありました。60歳を迎えた今も大分での未来に胸を躍らせています。財前さんが選んだ、もうひとつの人生とは。

【写真】「麦わら帽子につなぎ姿で財前さんとそっくり」大分で育った息子・凛太郎くんとのツーショット(8枚目/全10枚)

「予約をしないと、子どもの成長が祝えない」違和感

大分で茶摘みに勤しむ財前さんの近影

── 女優として多忙を極めていた41歳のときに、大分に移住されました。仕事が順風満帆だった時期に、なぜ東京を離れたのでしょうか。

財前さん:30代は生活のすべてが仕事でした。女優のキャリアが一段落ついたと感じた37歳で結婚し、40歳で息子を出産したんです。高齢出産ということもあり、妊娠中から「この子と一緒にいたい!」という願いが強くなって。当時やらせていただいていたレギュラーのお仕事にも区切りをつけました。

── 出産後、すぐ復帰するという選択肢はなかったのですね。

財前さん:そうです。何よりも「子どもと一緒にいたい」という一心でした。でも、そのときはまだ、大分への移住なんて考えてもいなかったんです。

そんななか、息子の「お食い初め」をするために、スーパーへ鯛を買いに行ったときのことでした。「予約しないと尾頭付きの鯛は買えません」と言われてしまって。私は大分で生まれ育ったのですが、故郷ならお祝い用の鯛はいつでも手に入る。自然に囲まれ、両親が作った野菜を食べて育った私にとって、「食べ物を予約する」という感覚がありませんでした。

東京で子育てをするには、幼少期に自分が普通にやっていたことも、「事前の準備」や「予約」が必要なのかと…。そういう小さな違和感が、心にひっかかったんです。

キャリアの断絶よりも「今」の優先順をとった

── 自分が思い描く子育てが、東京のルールでは難しいと感じたのですね。

財前さん:そうですね。そんな折、生後9か月の息子を連れて大分の実家に帰省したんです。そうしたら、あまりにも居心地がよくて(笑)。畑で野菜を育てたり、自然の中で息子と過ごす生活を続けるうちに「この環境で子育てがしたい」と思うようになりました。一大決心というよりは、私が求めている子育てを探していったら大分に辿り着いた。ただ、それだけのことなんです。

── 女優というお仕事は産休・育休制度が充実した会社員とは立場が異なりますよね。キャリアが途絶えることに、不安はありませんでしたか?

財前さん:不思議とまったくなかったですね。理由はすごくシンプルです。それまでは「女優」という仕事が自分のなかで一番大切だったから、生活のすべてを女優業に費やしていた。でも今は、その大切なものが「子ども」に変わった。だから今度は、子どもを一生懸命育てるだけ。大切なものが変わって、やるべきことがシフトしただけなんです。

── なるほど。とはいえ、実際に現場を離れるのに勇気はいりませんでしたか?

財前さん:そうですね。そこはやはり自分自身、年齢を重ねてから生まれた子だったというが大きいのかもしれません。とにかく、少しでも息子と一緒にいたかったし「息子のなんでも第一目撃者」になりたかったんです。もちろん、子育てにはいろんな考えがあり、家庭ごとの状況があると思います。でも私は「寝返りをうった!」「立ち上がった!」という息子の初めてを、全部自分の目で見届けることが、何よりも幸せなことだと思ったんです。当時、その先のことはあまり考えていなかったと思います。息子のそばにずっといるためには、仕事を休むことが一番よかったというだけです。

東京にいても、つい「大分の栗」を考えてしまう

元気に育ったざるいっぱいの栗を抱えて

── お仕事はいつから再開されましたか?

財前さん:息子が4歳になり、幼稚園に通い出したタイミングです。私が不在でも、じいじ・ばあばと楽しく過ごせるようになったので、心置きなく東京や京都での仕事ができました。

「生活の拠点は大分、仕事は東京」と場所をわけることで、女優と母親の役割をうまく切り替えられたのもよかったです。オンとオフがつけやすくて、とても快適に働けています。頼れる存在がそばにいてくれたことは、子育てと仕事の両立に本当に助かりました。

── 東京で仕事をしている間も、大分の生活が恋しくなったりしますか?

財前さん:それが、東京や京都の現場に行っても、空き時間ができると「大分の農作物は大丈夫かな?」と、どうしても考えちゃうんですよね(笑)。「早く帰って、収穫した栗の処理をしなきゃ。新鮮なうちが美味しいから!」って。

農作物を育てていると、季節ごとに種まきや収穫など、やることがたくさんあるんです。だから、実は東京よりも大分での暮らしのほうが忙しかったりします。でも、自分で選んだ「忙しさ」だから、すごく心地いいんです。

取材・文:大夏えい 写真:財前直見 撮影(サムネイル):深澤慎平