(※写真はイメージです/PIXTA)

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長寿化のなか、資産寿命を延ばすことは、多くの人の課題です。そのようななか、退職金を「預けているだけではもったいない」という言葉に心が揺れる人は少なくありません。しかし、十分な知識がないまま不慣れな資産運用に踏み出した結果、老後資金を大きく減らしてしまうことも。ある男性のケースから、無理のない投資との向き合い方、そして大切な資産を守るための対策を考えていきます。

退職金3,200万円で始まった「余裕のある生活」

「これで、ようやく落ち着いて暮らせると思っていました」

そう話すのは、中村 恒一さん(58歳・仮名)です。勤務していた会社の早期退職制度を利用し、予定より少し早く仕事を離れました。受け取った退職金は約3,200万円。住宅ローンはすでに完済しており、子どもも独立しています。夫婦2人の生活に大きな支出はなく、日々の暮らしに不安はありませんでした。

「贅沢はしなくてもいいので、旅行に行ったり、家でゆっくり過ごしたり。そんな生活をイメージしていました」

退職後しばらくは、まさにその通りの日々だったといいます。時間に追われることもなく、朝はゆっくり起き、気が向いたときに外出する。長く続けてきた仕事から解放され、穏やかな時間が流れていました。転機となったのは、退職金の一部を普通預金に預けた際のことでした。窓口で資産運用の提案を受けたのです。

「このまま置いておくだけではもったいないですよ、と言われて……」

提案の中心は、新NISAを活用した投資信託。長期・分散投資であれば、リスクを抑えながら資産の成長が期待できると説明を受けました。

「元本保証ではないという話もありましたが、長く持てば大きく崩れることはないと聞いて『なるほどな』と納得感がありました」

中村さんは、退職金の一部を運用に回すことを決めます。新NISAの枠を使いながら、残りは課税口座で投資信託を購入しました。運用を始めてからしばらくは、特に大きな変化はありませんでした。ところが、次第にある行動が習慣化していきます。

朝起きると、まずスマートフォンで評価額を確認する。日中もニュースサイトで相場の動きを追い、夜には再び口座を開く――。「最初は、たまに見る程度だったんです」そう振り返りますが、気づけば1日に何度も確認するようになっていました。市場は日々変動します。数万円単位の増減は珍しくありません。ときには、1日で数十万円単位の変動が出ることもありました。

「下がると、その日1日ずっと気になってしまうんです」

変化は少しずつ表れていきました。外出先でも相場が気になり、スマートフォンを開く回数が増えました。旅行中も同様でした。

「景色を見ていても、頭のどこかで値動きが気になっていました」

妻の由紀子さん(55歳・仮名)も、その変化を感じていたといいます。

「前はもっとのんびりしていたのに、最近は落ち着かない様子が増えました」

大きな損失が出ているわけではありません。評価額は増減を繰り返しながらも、大きく崩れてはいませんでした。それでも、中村さんの中では「気が休まらない状態」が続いていました。

データが示す「高齢期と資産運用の関係」

総務省統計局『家計調査報告〔家計収支編〕2025年(令和7年)平均結果の概要』によると、60歳以上の無職世帯では、可処分所得を上回る支出が見られ、不足分は貯蓄の取り崩しで補われています。つまり、この世代にとって金融資産は「増やす対象」であると同時に、「生活を支える基盤」でもあります。

また、金融広報中央委員会『家計の金融行動に関する世論調査(2024年)』では、60代の約6割が元本割れリスクを避けたいと回答しており、価格変動に対する心理的な抵抗が強い傾向が示されています。こうした状況のなかで、日々価格が変動する資産を持つことは、単なる資産の増減以上に心理面へ影響を与える可能性があります。

ある日、中村さんはふと「増えている日もあるのに、なんだかずっと落ち着かない」と口にしたといいます。それに対して、妻は「投資を始める前のほうが、よかったんじゃない?」と返しました。その言葉に、はっとしたといいます。

「確かに、あの頃はお金は増えていませんでしたが、気持ちはずっと楽でした」

資産を増やすために始めた運用が、結果として日々の満足度に影響を与えていた――。その事実に気づいた瞬間でした。中村さんは現在、運用額の一部を見直し、値動きを過度に気にしない範囲に調整しています。

「全部やめるつもりはありません。ただ、自分が落ち着いていられる範囲にすることが大事だと思ったんです」

退職金は、これからの生活を支える大切な資金です。同時に、その使い方によっては生活の質そのものに影響を及ぼす側面もあります。資産運用は有効な手段の一つですが、「どれだけ増やせるか」だけでなく、「どうすれば無理なく続けられるか」という視点も欠かせないでしょう。