辻村深月さん

 どうして私たちは、大きな事件に魅了されてしまうのだろう。噂(うわさ)は炎のように、町に降り注ぎ、燃えさかる。辻村深月さんが、覚悟を持って挑んだ「ファイア・ドーム」(小学館)を、7年かけて書き上げた。

 2004年のデビュー直後から編集者に、いつか現代長編ミステリーを読みたいと言われていた。キャリアを15年ほど重ねて着手しようとしたが、あるためらいが生まれていた。「今の自分が簡単に刑事事件を書くことはできない」と。

 初期の頃であれば、無邪気に飛び込めた。「視野が狭い時の方が走れるんです。向こう見ずさから生まれる小説もたくさんあるし、熱があるものが多かった」

 意識が変わったのは、10年に「ゼロ、ハチ、ゼロ、ナナ。」が、吉川英治文学新人賞の候補になった時だ。選考委員の宮部みゆきさんから、物書きがなぜ人の不幸を書くのかということにきちんと取り組んでいると評価された。「事件というのは他者の不幸であると、初めて明確に自覚した瞬間でした」

 誰かの不幸をフィクションの世界で書くことにどんな意味があるのか。怖かった。だからこそ、今の自分が書くとすれば、そんな事件になぜ人は魅了されてしまうのかという問いと向き合う方向から書くしかないと考えた。事件で傷ついた過去をもつ町を描くことから始めたいと編集者に伝えた。

 1994年の夏、地方都市で、百貨店の受付嬢が誘拐され、殺される。地元が全国ニュースに映り、「脚光」を浴びる。地元の人たちは、この状況を終わらせたくないと思い始める。噂が流れ始める。真犯人は。受付嬢の素顔は。事件の前日に小学生が行方不明になり、車にはねられた件との関係は――。

 「スノードームみたいに限られた小さな空間で噂の火の粉が舞ったら、逃げ場がない。静かになったように見えても、新しい事件が起きるとつつかれて、再び燃え上がります」

 そして25年後、傷ついた町で、また小学生がいなくなる。過去の因縁を感じる事件が幕を開け、今度はSNSでも噂が駆け巡る。

 時代を越えて、複数の事件が絡まり合う展開を、被害者遺族、新聞記者、事件の関係者ら複数の視点で書いていく。読者もこの町の人々と同じように、噂に翻弄(ほんろう)されることになる。

 上巻では、悪意のない噂でも、その軽さがどれだけ人を傷つけ、追い詰めるのかを描き出した。「下巻では、登場人物が噂は根絶できないと分かった上で、自分は何を守って、どんな姿勢を取るのかということをだんだん獲得していってくれた気がします。彼らがどんな選択をしたか読んでほしい」

 ファイア・ドームのようなこの町は、揺り動かされたら、また火の粉が舞ってしまうだろう。それでも彼らは、大切なものを守れるはず。物語は、読者にも祈りを託すように語りかける。「ここで話が閉じるわけではなく、外側の未来に読者の皆さんも一緒に目線を向けてくれていると信じています」

 作家として、大きな仕事が一つ終わった。

 かつて、宮部さんの作品を読んだとき、謎の追究や登場人物がどうなってしまうのか知りたいと夢中になった。本を閉じた後にふと自分の現実がそこにつながっていると気が付いて、社会の見え方が変わった。「そういう小説を、ミステリーというみんなが夢中になる謎を通じた物語の形でやりたかった」。社会派ミステリーから受け取ってきたものを書けたという、大きな達成感に包まれている。

 長いキャリアの中で使ってこなかった筋肉を鍛えた感覚も。「新しい武器を手に入れた。今後何かを書くときには必ず自分を助けてくれると思います」(堀越理菜)=朝日新聞2026年6月17日掲載