「2回も3回も4回も『顔が小さい』って言われ続けると…」水原希子が吐露した“外見を褒める”日本人への違和感《成田悠輔が聞く》
経済学者・成田悠輔氏がゲストと「聞かれちゃいけない話」をする対談連載。第14回目のゲストは、俳優・モデルの水原希子さんです。俳優・モデル・起業家として世界で活躍する水原さんのルーツとは。(構成・伊藤秀倫)
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自分のルーツへの「恥ずかしさ」
成田 (オンラインの背景を見ながら)今いらっしゃるのどちらですか? 日本家屋っぽい感じで。
水原 そうです。今、築70年ぐらいの古い家に住んでるんです。

水原希子(本人提供)
成田 ヴィンテージお好きで?
水原 そうですね。ノスタルジックな感覚がすごく好きで。基本的に音楽とか服も、結構古いものが好きだったりします。
成田 でもお生まれはアメリカでしたよね。
水原 はい。テキサス州ダラスで生まれて。2歳の頃に日本に来て、それからは神戸に住んでました。なので、実は関西弁ペラペラです。
成田 あ、それはちょっと意外。お父さんがアメリカ人、お母さんが韓国人と伺ったんですが、ご自身のアイデンティティとしては日本人という感覚なんでしょうか? それとも多国人や無国人?
水原 ベースは日本人って感じですね。そのときいる場所によって感覚は変わるんですけど、母も日本で生まれ育っているので。曾祖父母の代で日本に来て、私が在日韓国人の4世になるのかな。
ただ、子どもの時から自分はみんなと違うというのは常に感じていました。父が運動会とかで学校に来ると、やっぱりメチャメチャ目立つわけですよ。それが恥ずかしくて。しかも、父の姓の「ダニエル」を名乗ってたんです。
成田 ダニエル希子さん。
水原 そう、カタカナなのがすごい嫌でしたね。自分の母が在日韓国人だって知ったのは、ちょっと後でした。母も説明するのに少し間を置いたみたいです。当時の私はまだ両国の歴史をよくわかってなかったけど、一つわかったのは、友達に自分が在日韓国人だって言ったら、メッチャ混乱するだろうなということ。すでに“半分アメリカ人”という時点で混乱しているわけですから。子どもながらにそれは分かりました。
ただ、父と母は私が小5のときに離婚したので、姓が「水原」になったときは嬉しかったですね。これで目立たなくなったって。
成田 自分のルーツが言いづらい、恥ずかしいみたいな感覚から抜け出したのはいつ頃なんでしょう?
水原 やっぱりモデルの仕事を始めた時だと思います。父と離婚して母が女手ひとつで私と妹を育てなきゃいけなくなって、経済的にもかなり大変だったんです。だから私も何とか母を助けたいなと思っていて。そんな時、たまたまティーン向けのファッション誌『Seventeen』にオーディションの告知を見つけて、受けてみたら、見事受かりまして。
成田 それが何歳のときで?
水原 12歳です。あの当時の『Seventeen』って面白くて、首都圏在住のハイスペック組と田舎から出てくる組に分かれてたんです。東京の子は事務所に入っていて、映画とかテレビに出たり、レールが敷かれている感じ。一方で私みたいな田舎組は、週末上京してホテルに泊まって仕事してまた田舎に帰る生活。
成田 そのお仕事ではじめてハーフなことが活きはじめた、と。
水原 ラッキーだったなと思うのは、やっぱり日本の人ってハーフの人、大好きなんですよね。当時、一緒にモデルをしていた子たちもほぼ全員ハーフでした。
外見を褒める日本人
成田 日本人ってなんでハーフ芸能人とかハーフモデルがあんなに好きなんでしょうね?
水原 面白いですよね。よく考えるんですけど……ハーフに対するちょっとした憧れがあるのかもしれませんが、逆に“違い”を強調される部分もあるんです。例えば日本では、「顔小さいね」とか「脚メチャ長い」とか、いまだにすごく言われるんですよ。アメリカでは、外見のことは絶対言われない。顔が小さい方がいいという発想が、そもそもない気がします。
成田 「日本人離れした」みたいな表現も日本人自身が大好きですもんね。
水原 そうそう。でも、2回も3回も4回も「顔が小さい」って言われ続けると、「脳ミソがないって言われてるのかな」って(笑)。もちろん、そういうつもりではないのは分かっていますが、何なんだろうなとは思いますね。
成田 何なんだろうなと複雑に思いつつ、ハーフを武器に東京に出稼ぎされるようになって。
水原 はい。そのとき木村カエラさんと出会ったんです。彼女もアメリカと日本のハーフで、すごい仲良くしてくれた。東京ではそんな出会いもあって、ハーフの人もいっぱいいて、しかもそれは価値があることとされていたので、自分のことも好きになれるようになりました。
成田 それまでコンプレックスだったことが、好きな価値になった。転換というか天啓ですね。
水原 そうですね。ただ東京での時間が刺激的すぎて、地元に帰るとギャップが余計にキツいというか。いい友達はたくさんいたんですけど、現実を突きつけられる感じで、居心地が悪くて。それで15歳のころ、『Seventeen』をやめて、神戸でくすぶっていたんですが、やっぱりこのままではダメだと思って、東京に引っ越して『ViVi』という雑誌に出るようになったんです。
成田 その若さ、っていうかまだ子供みたいな年齢で人前に出る仕事するの怖くなかったですか。
水原 本当に生意気だったので、あまり(笑)。何より私は幼い頃からファッションや写真が好きだったので、仕事をするのは楽しかったです。とにかくうまくなりたい気持ちがすごく強くて、結構ハングリーだったんですよ。
※約7000字の全文は、月刊文藝春秋のウェブメディア「文藝春秋PLUS」に掲載されています(水原希子×成田悠輔「山口智子さんと瞑想とSNS」)。全文では、以下の内容が語られています。
・トルクメニスタンでの衝撃
・10日間の瞑想合宿
・性的搾取の構造を変えたい
(水原 希子,成田 悠輔/文藝春秋 2026年6月号)
