家事ギライの母の家をピカピカに磨く。「余計なことを」と言われつつ、動かずにはいられないダンシャリ娘。(写真提供:大和書房)

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実家の断捨離について、考えたことはありますか?「どこから手をつければいいのか…」「そもそも親にどう切り出したらいいか分からない…」という方もいらっしゃるのではないでしょうか。そんな中、「実家の断捨離とはすなわち親子関係。スムーズにいくわけがない」と語るのは、断捨離の第一人者であるやましたひでこさんです。今回はやましたさんの著書『モノが減ると不安も減る 実家の断捨離』から一部を抜粋して、「実家の断捨離の対処法と心がまえ」をご紹介します。

【写真】断捨離の第一人者・やましたひでこさん

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親の人生を勝手に背負いすぎると共倒れになる

「実家の断捨離」を考えるとき、ぜひご自身にこう問いかけてください。親に対して過剰な期待を抱いていないだろうか。あるいは過剰な不安を持っていないか。そして、親の人生を勝手に背負いすぎていないか、と。

親には親の人生があります。あなたがしていることは、もしかしたら余計なお世話かもしれません。やや踏みこみすぎているかもしれません。つまりバウンダリーオーバー。

バウンダリーとは境界線のこと。親子になると、その境界線が曖昧になるのです。

私たちは未来への期待と不安によって親子のバウンダリーオーバーをいとも簡単に起こしやすくなっています。ぜひ胸に手を当てて考えてみてくださいね。

目指すのは、親子それぞれの自立です。そして、たがいの自立をベースにしながら助け合うこと。

親の自立が望めないのなら、自分の自立からスタートしましょう。断捨離のモットーは「隗より始めよ」。せっせと自分の家の断捨離に励み、もし親の病気や介護などサポートの必要性が出てきたら、そのときから動けばいいのです。

私も母の介護問題が出てきたとき、「実家の断捨離」に本腰を入れました。とはいえ、その前から帰省のたびに断捨離をしては、「余計なことをして」と嫌がられていたのですが。折しも母が入院することになったとき、「ようやく好きなように断捨離できる!」と腕が鳴ったものです。

このとき念頭に置いていたのは、母をケアしてくれるヘルパーさんが「快適な介護」をできる空間にすること。

身体的に動けない人が動かないモノに囲まれている環境は好ましいはずがないですからね。

生前整理のポイント――親とは「時間感覚」が違うと心得る

モノは生活の残骸で、家は人生の残骸。

実家の断捨離では、これら「残骸」の始末を子が負うことになります。親が生きている場合と亡くなっている場合で、その始末の方法は変わってきます。「生前整理」と「遺品整理」の違いですね。


『モノが減ると不安も減る 実家の断捨離』(著:やましたひでこ/大和書房)

では、親が生きている間のモノの断捨離、つまり「生前整理」はどう進めていったらよいのでしょうか。

この場合、親がモノに対してどのような価値観を持っているか――この価値観の受容が大切です。当然ながら親と子では価値観が違います。子にとってはガラクタに思えるモノも、親にとっては思い入れのある逸品だったりします。

とはいえ、親の価値観を理解する必要はありません。「ああそうか、親はこういう価値観を持っているのだ」と受け止めるだけでいいのです。

親と子では時間の流れ方が違います。断捨離では常に「目の前のモノが今の私にふさわしいか」を問いかけますが、この「今」の長さが親子で全く違うのです。

子が「今、これ使っていないじゃない!」と訴えても、親は「今、使っている」と主張します。よくよく聞けば、それを最後に使ったのは10年前。

幼児が1年で目覚ましい成長を遂げる一方で、大人にとって10年くらいは「今」として停滞しています。

このように時間感覚が長くなることは、「思考・感覚・感性」が老けていったことを意味します。「思考・感覚・感性」が老けると肉体も老けていき、肉体が老けると「思考・感覚・感性」も老ける。

老けてしまった人にとって未来は不安でしかありません。なぜなら閉塞して淀んだ「今」が物事の判断基準となっているから。淀んだ環境の中で想像できるのは淀んだ未来しかありません。

親子バトルも断捨離の一部

一方、「今」を意識してモノを入れ替えていくと住空間に新陳代謝が起こり、「思考・感覚・感性」が動き出します。すると、エネルギーが湧いてきて「思考・感覚・感性」も肉体も若返ってきます。

「流水濁らず、忙人老いず」という言葉があります。流れている水は濁らない、忙しい人は老いないという意味ですが、つまり動き回っている人は老けない・老いないのです。こうした時間の流れ方も含めて親の価値観を知る、受容することが大切です。

とはいえ、私自身、母の価値観を受容することが容易でなく、実家の断捨離を巡って激しくやり合いました。なぜこんな「しょうもないモノ」ばかり抱えて、自分の部屋をガラクタ置き場にして愚痴や不平を言っているんだろう――と忌まわしい感情ばかりが生まれます。

私はモノを減らしたい一心で「これ、いらないよね?」と聞くと、母は「たしかにいらんね」と一旦はうなずきます。ところがすぐに撤回し、「でも、やっぱりとっておいて」と言うのです。こちらは腹立たしいったらありません。

ただし、バトルになったとしても、断捨離すると空間がキレイになるのは事実。そして誰もがキレイになったら気持ちいいと感じるもの。こうした親子バトルも断捨離のプロセスの一部なのです。

とはいえ、こうしたバトルを経て丸く収まる例もあれば、そうならない例もあります。私の場合は後者でした。母は最期までモノを捨てることはせず、私にも手をつけられたくなかったのでしょう。私に「捨てんといて!」と言って亡くなったのですから。

遺品整理のポイント――それは「砂金探し」という供養

生前整理と遺品整理は、モノの選択基準が違います。

私たちの宿命として、死ぬまで生きていかなければなりません。今、生きていて、そしていつまで生きるかはわかりません。死ぬまで生きている、その間を快適に暮らしたいし、親には快適に暮らしてほしいという思いがあります。その快適さを損なうモノを捨てる、これが生前整理です。

その快適さの基準は、物理的な快適さと同時に心理的な快適さもあります。私は「快適な生活をしやすい環境づくり」を優先して生前整理に励みましたが、親の心理的な快適さを無視してしまったため、大ゲンカになりました。

さて一方で、遺品整理とはいわば「残骸」の整理です。亡くなった人が遺していったモノは、その人の「生活の残骸」といえます。家・屋敷はその人の「人生の残骸」。

残酷な言葉にも聞こえますが、その残骸の中に、本人さえも忘れていたであろう、旅立っていく身として伝え残したいモノが必ずあると考えています。本人が意識しているか、していないかは別として。

砂金探し=供養

遺品整理とは、まるで砂金を探すような作業のこと。捨てることにフォーカスした作業ではなく、あくまで発掘作業です。

砂金をみつけたら、それ以外の土砂は残骸であり、いらないモノとなります。

「お母さん、大丈夫。あなたが遺したいモノは私がちゃんと探し出すから」という供養になるのです。

そもそも、あちらの世界ではいらないから置いていったモノばかりですからね。

「いらないんだよね。だから置いていったんだよね。始末しようと思ったけど、間に合わなくて忘れていっちゃったんだよね。わかったよ」と言ってあげる。それが夫や子どもに対してなら話は別ですが、親に対してはそんなふうに声を掛けます。

私は遺品について、あるいは遺体について、「脱いだ服」のようだと考えています。脱ぎっぱなしであの世へ行ってしまった、それなら始末をしてあげよう、と。

チベット仏教を信仰する国・ブータンは、遺体は土に返すもの、土に還るものという考え方をします。日本のように遺体に対する特別な感傷はありません。

墓石はなく、天まで届くような竹の棒にダルシンと呼ばれる祈祷旗がついていて、そこに経文が書いてある。この白い旗のはためく棒が高い山に何本も立っている景色は壮観でもあります。私は「これだ!」と思いました。

日本では人が遭難すると遺体の捜索をしますが、もし私が遭難したら遺体を探す手間をかけたくないと考えてしまいます。見つからなかったら死んでしまっていると思っていい、ちゃんと土に還るのだから心配しないで、と。まして「モノは残骸」ですから、私の遺品がほしければ持っていけばいいし、いらないなら捨ててしまっていい、とそんなふうに考えています。

話がやや飛躍しましたが、まとめると――。

遺品整理というと重たい響きがありますが、それは「残骸処理」。でもその中に砂金がある。「砂金探し=供養」と考えると、少しは心が軽くなっていくものです。

※本稿は、『モノが減ると不安も減る 実家の断捨離』(大和書房)の一部を再編集したものです。