異性の相手を褒めるとセクハラ? 恋愛小説の第一人者が語る「男女の話」〉から続く


小池 真理子『日暮れのあと』(文春文庫)

 山の静けさに包まれながら、軽井沢の木立の中にたたずむご自宅で、作家・小池真理子さんにお話を伺いました。(全5回の4回目)

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――以前と比べて、コミュニケーションツールが変わってきました。どの職場でもシーンと静まりかえる時間が結構あると聞いています。みんな忙しいから、スラックやメールといったオンライン上でやりとりした方が早くて効率は良いんですけど、小説を生み出す土台――人と人との会話、コミュニケーションが減ってきているような印象があります。このあたりはどのようにお感じになられますか?

小池 (大きくあいづちを打ちながら)本当にその通りです。私の書く作品は昭和以降の現代を舞台にしたものばかりですが、つまり、過去を舞台にすることが圧倒的に多いんですね。なぜかというと、ちょっと耐えられないんですよね、現在そのものを舞台にするということが。

――なるほど!!

小池 小説家として、今現在の、この感じ、この時代が苦手なんです。魅力を感じない。むしろ、「書けない」といった方が当たっているかもしれない。

――コミュニケーションツールのことが理由で、今の時代が苦手ということでしょうか?

小池 いえ、すべてです。人と人との距離がものすごく遠く離れちゃったにもかかわらず、SNSのツールが山のようにあって、しかもさらに細分化されていますよね。人と面と向かって会わなくてもいいし、その必要も少なくなっているし、情報は気が狂うほど入ってくるし、いつでもどこでも、見知らぬ他人と「いいね!」で理解し合える。そうなると、いろいろな意味での出会いがなくなって、たとえば究極を言えばAIを恋人や友人にしてもいいわけですよね。朝から晩までスマホを見ていればだいたいが事足りますから。でも、そういう時代のことを私はなかなか書く気になれない。

 実は先日、「ソリチュード」(「小説新潮」の連載散文小説)に、AIの恋人を失った男の話を書きました。そういう書きかたも小説の中ではできるし、面白いなぁ、と思ったけど、基本はやっぱり敬遠します(笑)。だって実際には人と人とがこんなに近くにいるのに。電話もめったにしなくて、スマホやタブレット、PCの中の文字でつながってて。仮想空間の中の人間関係になってしまっているのが、私の中の小説的イメージとなかなかリンクしてこない。

 頭の中が、時々、さっきも言ったように(本連載2回目の記事参照)、ふと気が付くと別世界に行っちゃうのは、目に見えないタイムマシンに乗って自分自身の過去にすーっと戻ってしまっている、ということなんだろうと思ってます。で、そこから、初めて想像力を働かせて、物語世界を作っていくのがとても好きなんですね。

 たとえばLINEでメッセージが入って、それに返信する、ラインの着信音が続いている、とか、今の時代を現代人らしく生きている主人公を描こうとすると、身も蓋もない感じがどうしても残ってしまう。いくらでも文章の中で、表現を自分流に重ね塗っていくことができるとしても、何かが違うんですね。スマホの小さな長方形の画面に文字が浮いている……。ふしぎな、濃密なコミュニケーションではありますが、小説の中であえて多用しようとは思わない。

 あ、でも、私も、参加はしないけれどもSNSはわりとよく覗いていますよ(笑)。だからまあ、現代社会の有り様みたいなものは人並みに把握しているつもり。でも、このツールを使って人間関係が成立する小説を書きたいとは思いません。現実の便利な機能として使っているだけ。

――先の衆院選でもそうですけれども、短い強い言葉を発信するとか、面白いコントみたいな形でショートの動画を流したり、SNSが力を持ってきているのはすごく感じるんですよね。

小池 力はものすごく持っていると思います。でもある意味、その傾向は怖いことかもしれません。

 私は反戦デモに出たり、反戦フォーク集会に行ったり、仲間同士、政治的な発言をすることが、若い子たちにとっての、ある種の特権や美徳だったような時代に高校時代、大学時代過ごしました。1968〜1969年には東大紛争があり、三島由紀夫が割腹自殺した三島事件(1970年)もあった。とにかく学生たちが集まれば、政治の話をしていたし、それがかっこいいと思われる時代だった。

 そんな時代を生きた人間の一人としては、やっぱり対面で話をすることに郷愁みたいなものがある。まじめなことを議論していても、たいてい意見なんか合わないんですよね。で、相手はものすごい勉強しているなと感じると、恥ずかしくなって、それなのにこちらは負けまいとして、知ったかぶりを続けたりね。議論はかみ合わないし、めちゃくちゃでしたけど。

 そうやって、どこか空疎な議論を交わして、結局、そこから何も生まれなかったかもしれないし、何も残せなかったんだろうと思うけれども、少なくとも私はあの時代に思春期を送ることができて良かった、と思ってます。

 今では、みんながSNSの中でショート動画とか、Xのとても短い数行の強い言葉をかっこよく語った人に対して、わーっと後に従うような傾向がありますね。

 アルゴリズムと呼ばれることみたいですけど、たとえばたまたま検索したワードを中心に、それに類似するような他者のコメントが勝手に流れてくるでしょ。最初わからなくて、私と同じ発想をしている人が世の中にこんなに大勢、いるんだと単純に思っていたんですが、そうじゃなくて、自動的に割り振りされて送られてきているだけ。わざと逆の意味をもつワードを検索すると、次はそのワードを中心に情報が入ってくるから、すぐにわかる。そこに気づかないでどっぷりネットの発信にはまってしまうと、例えば政治でいえば、思想も何も関係なく、大勢の人が表現していることに影響を受けて、似たようなことを考えるようになるのでしょうね。それはリスキーだなと思う。

 だから、私は昔に戻って昔の感覚の中で、普遍的なことを表現していくことにエネルギーを注ぎたいと思っています。

――そういったネット発信では表現できない小説の素晴らしさって、どういうところだと思いますか?

小池 なんといっても使われる言葉の選び方、表現、文章すべて、その全体像、ということですね。たとえば短いネット発信では情景描写やそこに至った細かな心理の流れなんかはいらない。誰もそんな細かいところまで読まないでしょう。発信する必要もない。でも、小説では充分に描くことができる。そこが決定的に違います。

 たまたまネットで意見が同じたくさんの人たちのコメントを見続けていると、人間なので気分が良くなります。どことなく安心したりもする。

 私ですらそうなのだから、現代を生きる人たちは、始めたら止まらなくなるんじゃないかと思います。だってはっきり言って、面白いですから。作家で本名を使ってコメントをXで発信している方も多いですし。その人その人の価値観がはっきり伝わってきて、楽しい。

 例えばXでコメント投稿するのは、言いたいことがその場で言えて面白いだろうし、やっちゃおうかな、って思うこともないわけでないんだけど……。でもなんだろうな、私は自分が書く小説の世界の中だけで生きていたいんですね。言いたいことは、死ぬまで自分の作品の中だけで発信していきたい。だから本当に、こっそり見てるだけ(笑)。

(5回目に続く)

(小池 真理子,「文春文庫」編集部/文春文庫)