小泉八雲(ラフカディオ・ハーン)と妻の節子(セツ)、息子の写真(撮影年月不明、写真:GRANGER.COM/アフロ)


 NHKの連続テレビ小説『ばけばけ』は明治時代の作家・小泉八雲(パトリック・ラフカディオ・ハーン)と、妻の小泉セツをモデルとした夫婦の物語で、放送がスタートするや否や好評を博し、放送回を重ねるごとに注目が集まった。いよいよ3月27日に最終回を迎えるにあたり、『ばけばけ』では描かれなかった小泉八雲とセツのエピソードについて、著述家で偉人研究家の真山知幸氏が解説する。(JBpress編集部)

[JBpressの今日の記事(トップページ)へ]

セツの運命を変えた「3歳の宝物」、フランス人教官との温かな交流

『ばけばけ』で「神回」と大反響を呼んだのが、第65話(2025年12月26日放送)だ。ヒロインのトキ(郄石あかり)とヘブン(トミー・バストウ)の思いが通じ合う名シーンは感動的で、筆者も繰り返し視聴した。

 だが、ドラマでは描かれなかったが、実際にセツがハーンと結ばれるにあたっては、ある異国人の存在が大きかった。

 それはセツがまだ3歳の頃のことだ。松江城の近くで軍事教練が行われることになり、セツは家族に連れられて見学しにいった。

 そのとき、指導教官のフランス人ワレットが、ふいにセツのいるほうに近づいてきた。まだ異国人が見慣れない時代だ。居合わせた子どもたちはその場から、わっと逃げてしまったという。

 ところが、セツだけが怖がらずに、じっとワレットを見つめた。ほかの子どもたちが長身で赤い髪という風貌に恐怖を抱く中で、セツはむしろ好奇心をくすぐられたようだ。

「いくつ?」と年齢を尋ねられてセツが3本の指を出すと、ワレットはセツの頭をなでて、小さな虫眼鏡を手に乗せてくれた。その虫眼鏡はセツの生涯の宝物となったという。

 もともと異国人への抵抗がなかったセツ。短いながらも、ワレットとの温かい交流がずっと心に残っていたようだ。だからこそ、松江にやってきたハーンとも、たとえ言葉がわからずとも、深く心を通じ合わせることができた。セツ自身がこう振り返っている。

「私がもしもワレットから小さい虫眼鏡をもらっていなかったら、後年ラフカディオ・ハーンと夫婦になることもあるいは難しかったかもしれない」

 もう一つ、2人を結びつけるのに欠かせなかったものがある。

 ドラマでは、ヘブンが松江の寒さについて「ジゴク、ジゴク」とトキにこぼす場面がたびたびあった。だが、実際にはこの「松江の寒さ」が、2人の出会いのきっかけだった。

 ハーンも寒がりで、松江中学校の教員・西田千太郎に「授業中も寒くて困る」と相談。「それならば外套(がいとう)を着たままで、授業をなさい」と言われ、コートを着込んで授業するようになったくらいだ。

 だが、寒がりだったおかげで、ハーンはセツとの出会いを果たす。ハーンが赴任した年の冬は記録的な大雪で、より冷え込んでいた。とうとうハーンが風邪をひいて寝込んでしまうと、周囲はこんなことを言い出した。

「こういうときのために、誰か身の回りの世話をしてくれる女中を雇ってもらったほうがよいのではないか」

 そこで派遣されたのが、のちにハーンの妻となるセツだった。ハーンとしても、異国の地で病床につき、大きな不安に襲われたことは想像に難くない。そんなときに現れたセツに、いつの間にか心惹かれていくことになったのである。

「西洋のすべてが憎らしい」ハーンが神戸で味わった同胞への絶望と孤独

 無事に結ばれた2人だったが、長男が生まれたときに戸籍の問題に直面する。ハーンとセツはこの時点で入籍していなかったが、子どものことを考えると、どちらかの国籍に合わせて正式に夫婦になる必要があった。

 ドラマでも、トキとヘブンが市役所に足を運びながら悪戦苦闘。紆余曲折を経て、ヘブンは熊本の地で「小泉八雲」として日本国籍を取得する様子が詳しく描写された。

 だが、実際には、ハーンは熊本にいる間には、そこまでの決意をすることができなかった。

 ハーンとしては、夫婦で戸籍を一緒にすることで、経済的な安定を図りたかった。もし、曖昧なままにしておけば、死後に自身の遺産が顔も知らない母国の親戚たちのもとにいってしまいかねない。また、日本で財産権を失うといったリスクを考えると、妻子を英国籍にするよりも、自分が日本国籍を取得するしかないだろう……。

 そう考え始めたハーンは、不思議なことに、これまで否定してきた西洋文化への思いが沸き上がってきたという。

 間もなくしてハーンは熊本から転居することを決意する。行き先は神戸だ。外国人の多い寄港地だったことが、ハーンの心を捉えたようだ。親しくしていた西田千太郎に、こんなことまで言っている。

「どんな欠点があろうと、私自身と同じ色の魂を持つ仲間の人種に再び帰らなければならない」

 日本国籍を取るどころか、むしろ西欧人としてのアイデンティティを取り戻そうとしたハーン。ところが、神戸での同胞との交流は思ったようにはいかなかった。というのも、ハーンが交流を楽しめたのは、学者や教師など教養のある西洋人だった。その一方で、神戸では、宣教師や商人ばかりが集まっていたのだ。

 ハーンは親しい知人に手紙を書いて「日本の農民のほうが西洋の商人よりも十倍も紳士的です」と失望をあらわにしている。

 西洋のまね事のような日常風景も気に食わなかったようだ。「絨毯、ピアノ、窓、カーテン、ブラスバンド、教会! どれもこれも憎らしい!」とまで書いている。

 失うことになると、その価値を高く感じるのが人間というもの。ハーンもいざ日本国籍を取る段になって、西欧人としての自分を捨てがたいと感じたが、神戸に身を寄せたことで、それもまた幻想であると気づくことになった。

 ドラマでは一切触れられなかった神戸時代だが、ハーンにとっては「日本人として生きる」という一大決心に踏み切った重要な時期となった。

「気も狂います!」家族の回想に記された、セツが激しく取り乱した衝撃の場面

 ドラマでは終始、仲むつまじい夫婦だったが、実際のセツはたびたび癇癪(かんしゃく)を起こして、ハーンを戸惑わせた。セツが激高したときの様子を、息子の一雄は『父小泉八雲』で、こんなふうに書いている。

〈母は例によってヒステリーを起こしてそこらへんの物を手当たり次第に床へ叩きつけた後、虚空を掴み、歯を喰いしばって倒れた〉

 壮絶なシーンである。ハーンは2階に向かってこう叫んだ。

「お祖母様! 早く来て下され、ママさん又あの病気です!」

 書生や女中も対応に追われて、大騒ぎになったという。「例によって」「又あの」という表現から、セツはたびたび取り乱していたことが伝わってくる。

 セツの怒りの矛先がハーンではなく、息子に向かうときもあった。あるとき息子の一雄と女中が食べた卵の数をごまかすと、セツは怒り心頭で大暴れ。一雄がこう振り返っている。

〈髪は解け乱れ、目尻が狐の面のように吊り上がってしかも充血し、唇の色は土の如くなって拳を固め、地踏鞴を踏んで狂う母の形相は実に恐ろしいものでした。障子は破れ唐紙は脱れ家鳴震動の騒ぎでした〉(『父小泉八雲』より)

 並みの怒り方ではないが、このときにセツはこう叫んだという。

「気も狂います。皆が妾を馬鹿にするから!」

 ドラマでは新聞記事をきっかけに、トキが周囲から「洋妾(ラシャメン)」と噂される展開があったが、実際につらい思いをしていたようだ。ひ孫の小泉凡氏は『セツと八雲』(朝日新書)で、こうも書いている。

〈セツは八雲と暮らすようになり、「洋妾」と後ろ指をさされたそうです。それが本当につらかった、とセツは後年、明かしています。西洋人の妾になると、日本人の妾以上に偏見を持たれたそうです〉

 まだ国際結婚が珍しかった時代である。周囲の偏見だけでもつらいのに、夫と十分にコミュニケーションがとれないストレスも加われば、セツが行き場のない感情を抱いたとしても無理はないだろう。

「あなた日本男児ないですか!」帰化したばかりのハーンが見せた意外な教育方針

 一方のハーンもまた、よく分からないことで怒りだすことがあった。

 意に沿わないことがあると「ジゴク、ジゴク!」と騒ぐ様子はドラマでも何度となく描かれたが、実際のハーンは息子の一雄に対してもそうだったようだ。

 泳ぎが得意だったハーンは、まだ3歳の一雄を海辺に連れだすと、海面で浮くことを覚えさせようとした。セツが「かわいそう」と止めるのも聞かずに、ハーンは教えようとするが、一雄は小さな波にさえ怖がり、浮くことなどできそうもない。

 年齢を考えれば当たり前だが、ハーンはこう叱り飛ばした。

「あなた日本男児ないですか!」

 ちょうどハーンが日本国籍を取ったばかりのときのことである。日本人であらねば、という思いが強すぎたのか、ちょっと空回りぎみのハーンだった。

 もちろん、ドラマさながらの仲むつまじい逸話も数多くある2人だが、夫婦として共に歩んでいくにあたっては当然のことながら、さまざまな衝突はつきもの。

 また、ハーンについては、日本国籍を取るにあたってアイデンティティの危機を感じていた時期もあった。

 ドラマでは描かれなかった2人の苦労や葛藤も頭に置きながら、『ばけばけ』最終回でトキとヘブンの絆がどんなふうに描かれるのか注目したい。

【参考文献】
『思ひ出の記』(小泉節子著、小泉八雲記念館監修、ハーベスト出版)
『セツと八雲』(小泉凡著、朝日新書)
『ドラマ人物伝 小泉八雲とセツ:「怪談」が結んだ運命のふたり』(NHK出版編、NHK出版)
『ラフカディオハーンが愛した妻 小泉セツの生涯』(櫻庭由紀子著、内外出版社)
『ラフカディオ・ハーン─異文化体験の果てに』(牧野陽子著、中公新書)
『小泉八雲 漂泊の作家ラフカディオ・ハーンの生涯』(工藤美代子著、毎日新聞出版)

筆者:真山 知幸