『呪術廻戦』夏油傑の“闇堕ち”が象徴するものとは 『少年ジャンプ』が示す“新たな王道”
『呪術廻戦』の中で屈指の人気キャラである五条悟と夏油傑の過去を中心に描かれたエピソード「懐玉・玉折編」を、1本の映画としてまとめた『劇場版総集編 呪術廻戦 懐玉・玉折』が現在公開中だ。
参考:劇場版『呪術廻戦 懐玉・玉折』が持つ総集編以上の意味 そこにあったどこまでも青い季節
まず、『呪術廻戦』を語る上で、作品全体を貫く「正しい死」というテーマを避けて通ることはできないだろう。そもそも『呪術廻戦』の第1話では、主人公・虎杖悠仁の祖父の「死とその正しさ」を巡る物語をきっかけに、彼は呪術師を目指すことになる。彼は祖父からの「オマエは強いから人を助けろ」「オマエは大勢に囲まれて死ね」という最期の言葉に導かれ、誰かを「間違った死」から救いつつ自らの命の正しさをも追求しながら、呪術高専に入ることを決断するのだ。
同様に、『呪術廻戦 懐玉・玉折』でも、特に2人の主人公のうち、夏油にとっては、「正しい死」というテーマが大きな意味を持つ。そして、本作における夏油の「親しいものの死」も彼を新たな運命へと導くこととなるのだが、その流れ自体は虎杖の始まりの物語とは真逆の構造と結末を迎えた見事な対比となっているといえるだろう。
本来「弱きを助け強きをくじく」「呪術は非術師を守るためにある」と語っていた夏油は、術師として、社会として、真っ当にあるべき姿を追求していた。しかし、護衛対象であった天内理子の死と、その死に対する世界のあり方に彼の正義は揺らぐ。また後輩である灰原雄の「できることを精一杯頑張るのは気持ちがいいです」というような言葉や明るさは、彼のその揺らぎを繋ぎ止めるかに見えたが、その灰原の死がさらに彼の選択を修羅に誘っていく。夏油にとっての「間違った死」が「術師というマラソンゲーム その果てにあるのが仲間の屍の山だとしたら」という迷いを生み、彼は呪術高専を辞め、世界に牙を向く選択を取るのだ。
こうして虎杖も夏油もきっかけは「親しいものの死」でありながら、一方は術師になり、他方は呪詛師となることを選ぶ。
夏油と虎杖に、作中での直接の接点はないものの、2人の間に存在する五条という男を媒介に、彼らの選んだ光と闇がより浮き彫りになる。それは、『呪術廻戦 懐玉・玉折』という総集編を見て改めて感じる部分であった。もちろん、こうしたストーリーの流れは原作通りのものなので、総集編ならではの良さとは言い難いかもしれない故、ここからは総集編だけでしか味わえない部分についても触れていきたいと思う。
原作にもアニメ版にもない、総集編オリジナルの要素といえるのは何よりも、キタニタツヤによる主題歌「青のすみか」のアコースティックバージョンを使用した特殊エンディングとその映像にあるだろう。
オープニングとしても使用されているこの楽曲とともに画面に流れるのは、夏油が去った後の五条たちの卒業式の写真や、夏油と五条が共に過ごした青春の時間を描いた写真だ。こうした、原作にこそ描かれてはいないが、確実に「存在している記憶」たちのイラストはアニメや原作で一度は本作に触れているというファンにも必見のものとなっている。
この時点までその天衣無縫さにより、筆者は完全に忘れていたが、現在の時間軸では既にいい大人の年齢である五条の、若かりし過去とその儚さを見て、アニメ『呪術廻戦』第1期 第6話と、劇場版『呪術廻戦0』でも五条が語る「若人から青春を取り上げるなんて許されていないんだよ、何人たりともね」というセリフもより深い意味を持って反復される。
さらに、フル尺で流れる「青のすみか」のアコースティックバージョンにも残された、学校のチャイムのアレンジがまた、彼らの青春をより一層後戻りのできないノスタルジアに引き摺り込むという、尋常ではない演出が施されているのだ。こうして、単なる過去編にとどまらない『呪術廻戦 懐玉・玉折』は、『呪術廻戦』という物語の全てが深まる総集編として、今こそ劇場で見るべき作品なのである。が、その他の理由を述べる前に、まずは『週刊少年ジャンプ』(集英社)と「作品が描く死」の距離感の変化についておさらいしたい。
『週刊少年ジャンプ』においては1990年代前半から2010年代前半にかけて、「人が死なない作品」が看板マンガとして覇権を握ってきた。今も圧倒的な看板である『ONE PIECE』では、(過去編をのぞき、特にエースや白ひげが亡くなるまでは)「死を描かない作品」としての印象が強く、また同時代に看板を担っていた『NARUTO』や『BLEACH』を想起してみれば、なによりも、主人公が「敵を倒す」物語に収まりながら、人としての「誰かを殺す」という描写は覇権マンガにおいて徹底的に避けられたうえで、「死」との距離が測られていたと言える。
そういった観点からみると、『ジャンプ』の代表作として後世も名前を挙げられるであろう『ドラゴンボール』が、メインキャラの死こそあるものの、「ドラゴンボール」を使えばいくらでも生き返るというバランスをとったのは、この「人が死なない」という流れを作り上げた大きなきっかけでもあるだろう。ここで「少年誌」としての『ジャンプ』における「死」は悪く言えば1つ軽くなり、良く言えばそういった不可逆の深刻さはある種の御法度になっていった。同様に『NARUTO』でも「死者が蘇生する」という流れは幾度も訪れる。こうして、「友情・努力・勝利」を三大原則としている『週刊少年ジャンプ』の 1990年代前半から2010年代前半にかけての“王道バトルマンガ”には、今も再アニメ化が行われる『るろうに剣心』よろしく、「不殺(ころさず)の誓い」が根付いていたとも言えるだろう。
そんな中で、後戻りのない「死」を現実的なものとして描くことによって、こういった流れを決定的に変えた作品が『鬼滅の刃』である。そこから、『呪術廻戦』や『チェンソーマン』が、かつては『DEATH NOTE』などをして、“邪道”と言われていたダークファンタジーの雰囲気を前面に纏ったまま、世間の評価をほしいままにしていく。
これらの作品の登場の背景にはインターネットの普及があるとも考えられる。それはSNS以前の、「2ちゃんねる」や「まとめサイト」の文化から始まっており、インターネットの発展とともに行われた、読者の声の並列化に伴い、前述したようなこれまでの「ジャンプ」らしさによるマンネリの回避は「死」を正面から描くシリアスとリアリティを取り入れ、その上で「友情・努力・勝利」の“王道バトルマンガ”と融合する形で遂げられていく。
さらに、アニメの放送枠の変化も社会的な成功の1つの要因だと言えるだろう。夕方や朝に放送されていた時代から、深夜アニメの時間帯に移行し、各種サブスクを中心にして受容されるようになっていく。また、そういったトレンドは、連載期間の短期化のほか、主人公の目標や動機の変化にも見受けられるだろう。「海賊王」や「火影」といった相対的なNo.1を目指す物語から、「妹を助ける」「目の前の人を救う」「いい生活をする」という自分1人分の絶対的な何かを目指す物語へともシフトしているのだ。最も、この要素に関しては『BLEACH』がその橋渡しも担っている。
こういった意味で、かつての王道を正当に継承している看板マンガは『僕のヒーローアカデミア』であったと言えるが、大衆的な指針としての劇場版の興行収入では『鬼滅の刃』や『呪術廻戦』がやはり上回っているというのも事実である。こういった流れを踏まえて、現代の『週刊少年ジャンプ』は新たな“王道”の時代に突入していると言えるだろう。
そして、とりわけ『呪術廻戦』では、より個人の尺度や善悪の認識に焦点を当てることによって、「殺すこと」に対して罪と罰や、「死」によって受け継がれる人の思いが丁寧に描かれているのだ。それは『呪術廻戦 懐玉・玉折』において、夏油の語る「意味のある殺し」というセリフにも集約されていると言える。
さらに、最強の友でありライバルが近くにおり、社会のためという大義を抱えながらも、等身大の人としての苦悩に陥っていく様を見るに、夏油傑とは、かつての“王道バトルマンガ”を背負うにたる主人公の器をもっている男であり、だからこそ、彼の「闇堕ち」は『呪術廻戦』の中でも一際大きな翳りを放つのだ。そして、そんな夏油との関係を経験してきた五条悟の現在につながる変化こそがまた、今、改めてでも、総集編を見ておくべき理由なのである。
本作は、五条悟の眠りの中での回想シーンとして締めくくられており、最後に彼が目を開くと、そこには自らが育てている若人たちがいる。
またそのうちの1人は、本作において、伏黒甚爾が死の間際に五条に託した子でもあり、こうして多層的に物語は現在へと受け継がれていく。過去から現在にかけて「俺」から「僕」へと一人称も変化させた彼が、この物語を踏まえて行なってきたことは仲間を作ることであり、夏油と虎杖を分けた違いは、「1人で戦っていたのか」「そんな仲間たちと戦っているのか」という観点でも際立ってくることだろう。
そして、大変ありがたいことに『呪術廻戦』は第3期となる「死滅回游」が鋭意制作中となっているのだ。『呪術廻戦 懐玉・玉折』は、もちろん、全ての物語の始まりとして初見で楽しむもよいのだが、これから新たに虎杖を待ち受ける未来と決断、五条がみせる覚悟の前に、やはり、ファンこそ今一度向き合うべき作品である。(文=矢吹=幹太)
