第十七夜「恋する女」


私は29歳で、5歳になる可愛い娘がいる。

そして住まいは高級住宅街がひしめき合う城南五山のひとつ、御殿山の中でも指折りの豪邸。

だから周りの皆は、口を揃えてこう言う。

「嘘でしょ?瀬里ちゃんって女優さんみたいにキレイで、ママで、しかも超リッチなんて、ドラマみたい!」

そんな時、私はさも心外というふうに驚いてみせる。

「そんな…本当にたまたま、運が良かっただけなの」

抜群の美貌とスタイル。

そして若くして妻に請われ、富裕層の仲間入りをし、可愛い一人娘の優里に恵まれたことは、みんな“たまたま”。

―なわけないでしょ。

広く重厚なリビングで革張りのカッシーナに横たわり、極上のワインとチーズを口にしながらNetflixを見ていると、いつもは決して口にしない本音が出る。

綺麗に生まれたこと“だけ”は、たまたま。

あとのことは全て、私の魅力と才覚で手に入れたもの。

…もちろん、いまとってもいいアクティビティになっている「彼」でさえも。


美人セレブ妻・瀬里のお気に入りは、なんと娘の…!?


特別な女


「冬馬先生、今日も素敵!クリスマス会のときの写真送りたいんだけど、個人的なLINEは本部に禁止されてるからってID交換断られちゃった。下心があると思われたのかな?やだあ」

ママ友のマミは、娘の優里が通う体操クラブの仲間だ。たぶん水商売上がりで、32歳。ところどころにどぎつい趣味が見え隠れするけれど、にぎやかで楽しい。

「マミさんたら、そんなこと言って先生を困らせないで。万が一先生が変わったら、子供たちがショックで泣いちゃうわ。もうすぐ年長さんで受験も近いんだから、波風立てちゃだめ」

良識の塊といった性格の奈美子さんは、お教室の送迎でさえもお受験ママの戦闘服、紺ワンピに身を包んでいる。ストレッチのきいた素材のシンプルなデザインだから、彼女の緩みつつある体のラインを拾ってしまう。

奈美子さんは40歳と言っていたが、私はその歳になってもこんなふうになるワケないと内心思っていた。

ふたりとも御殿山に住むセレブ主婦で、同じお受験用の体操クラブに通わせている。幼稚園は違うものの年少からの顔見知りだから、最近では車の送迎を融通しあったりして、それなりに親しかった。

私とマミはあきらかに美貌で玉の輿に乗ったタイプだったが、奈美子さんだけは逆。御殿山に大きな実家があり、その隣にお見合いで結婚したご主人との家を建ててもらったようだ。

いつも着ている服や靴は、仕立てが良いのはわかるがどうにも野暮ったく、生真面目な性格もあってどちらかというとママ友の中でも“格下”といった扱いだった。




「こんにちは!お迎えありがとうございます!今日の内容とポイントはこちらにまとめてありますので、1部ずつおとりください」

その時、噂の冬馬先生が颯爽とわたしたちのほうにやってきた。180センチ近い身長に、均整の取れた筋肉質な体。そのうえ甘い顔立ちで、ママたちのなかには結構本気のファンがいる大人気の先生だ。

「沢田さん、合宿費の領収書です」

岩谷先生がキラースマイルで封筒を渡してくる。体操クラブの先生なんてやめてそのルックスを活かせる仕事についたほうがよほどいいのにと思いながら、にっこりと受け取った。

「ああカッコイイ!なんかいい匂いがするし。先生っていくつなんだろう?」

隣に立つマミが、うっとりと言う。

「26」

私が答えると、マミが驚いたように私を見た。

「え?そうなの?瀬里ちゃん、そんな話いつしたの?」

「年少さんのクリスマス会のときに言ってたじゃない。弟と同い年だから覚えてるの」

私はにっこり笑うと、体操を終えて駆けてくる優里を満面の笑みで迎えた。



「瀬里さん、弟なんていたの?僕と同い年とは知らなかったな」

傍らでくすくすと笑う男の声を、裸の胸から直接きいた。

「いない。いたとしても昔のことは忘れたわ」

指先で私の髪をもてあそぶ冬馬を、やんわりと制す。カールが全部とれてしまったら、このあと幼児教室のお迎えに行くときに訝しがられるかもしれない。

ベッドサイドの時計を見ると17時半。もうそろそろ行かなくては。

会うのはいつも、ジムとスパの会員になっている都心のホテルだ。ジムに行くのが毎日のルーティンに組み込まれているため、意外な密会の穴場になっている。

エレベーターで、ほんの少し、違うフロアで降りるだけ。

それだけでお金目当てで結婚した退屈な結婚生活も、くだらないお受験も、冴えないママ友とのしがらみも、シャットダウンすることができる。

私は冬馬の腕に抱かれて、まだ恋ができる自分を、やっぱり特別な女だと確信した。


うまくやっていると自負する瀬里。しかしマミの「秘密の噂話」に戦慄する…!


合図


「ちょっときいた?なんか、どっかの幼稚園のママと、お教室の先生がホテルで親密そうに歩いてたとこ、目撃されたんだって。私の周りのママ友界隈で噂になってる。特定されるのも時間の問題よねえ」

マミが興奮を抑えながら耳打ちしてきたとき、私は意外にも平然を装えた。

「へえ、そうなんだ。どこの幼稚園だろうね?」

この時間のスターバックスは、界隈の幼児教室が終わるのを待つ母親たちで満員だ。どこに知り合いがいるかわからない。声のトーンを極限まで落とした。




「うちの幼稚園ではそんな話、きかないけど。見間違いじゃないのかしら?ホテルのラウンジなら、私たちだって週に1回くらいお茶するじゃない。たまたまそこで受験の相談をしてたとか…」

奈美子さんは、そんな下品な話は御免とばかりに首を振る。真面目な奈美子さんからしたら、母親と先生の色恋沙汰なんて想像もしたくないのだろう。

「私も又聞きだからわからないけど、思わずスマホで写真撮ったっていうお母さんがいるらしいのよ。その人も大概よねえ。きっとその先生のファンだったんじゃないの?可愛さ余って憎さ百倍ってやつ」

奈美子さんは「汚らわしい」とでも言いたげに、口に手を当てて息をのんだ。私はといえば、もう笑うことはできなかった。



「しばらく会うのはやめましょう」

万が一を考えて、メールやメッセージを避け、私は初めて彼に電話した。

「どうしたの瀬里さん?来週は僕の誕生日、祝ってくれるって約束したじゃない」

本気で寂しそうな声を出す彼の様子に、ホテルで密やかに誕生会をしようと話した甘い約束を思い出し、チクリと胸が痛む。

もちろん家を空けることはできなかったが、優里のデイキャンプの間に会う約束をしていた。クローゼットの中に隠したプレゼントも頭をよぎる。

「ママ界隈で、保護者とどこかの幼児教室の先生が不倫してるって噂になってるの。誰かにきかれたことない?」

不倫、という言葉を口にしたとたん、急に安っぽいやり取りになっていく気がして苛立ちを覚える。

「ええ?そんな噂が?でも僕たちじゃないよ、二人で部屋の外を歩いたことなんか一度もない。目撃される訳がない」

「それはそうだけど…とにかく今は用心しないと。ね、分かって。落ち着いたら、お祝いやりなおそう?」

なんとか彼をなだめて、私は電話を切る。すぐに通話履歴を削除した。本当は連絡先も、万が一に備えて削除するべきなのはわかっている。

でも、今の生活から彼がいなくなったら…?

想像すると、ズキッと胸が痛んだ。彼の存在をなかったことにするには、あまりにも私の日常は退屈すぎる。

失うわけにはいかない。何としても二人の恋愛は隠し通さなくては。私は手のひらにネイルが食い込むほど、無意識のうちに自分の手を握り締めていた。



ママ友界隈に大激震が走ったのは、その1か月後のことだった。

何の前触れもなく、ママ友経由で回ってきた「噂の証拠写真」を見たとき、私は驚愕のあまり、小さく叫んだ。

そこには、安っぽいホテルから出てくる奈美子さんと、冴えない中年の男が写っていたのだ。

「このお母様、お教室の先生との不倫がバレて、卒園まであと1年なのに、一家で遠方に引っ越したらしいわよ。これだけ港区界隈で噂になったらもう受験もできないし、バカなことしたわよねえ」

写真を転送してきた幼稚園のママ友は、奈美子さんの知り合いではないらしく、それだけに徹底的に冷笑的だった。

のちにマミから聞いたところによると、マミはいち早くこの写真の入手し、なんと奈美子さんに直接どうするのかを訊いたのだという。

少しでも早く写真が流出していることを知らせようという、彼女なりの友情らしかった。

すると奈美子さんはなんとご主人に全てを話し、写真を撮られた男と一緒に、「離婚して」と土下座したという。

浮気どころじゃない。地味でつまらない女だと見くびっていたが、奈美子さんは本気で相手を愛していたのだ。驚いたことに、その冴えない男も。

しかしもちろん、奈美子さんのご両親とご主人の、寛大かつシビアな判断により、奈美子さんは強制的に悔い改めさせられた。

この顛末は、お受験ママ界隈でしばらくナンバーワントピックとしてささやかれ続けることになった。

その間、私はただの一度も冬馬に連絡を取ることはなかったが、彼はどうしているのだろうと、ずっと考えていた。

そしてふと、思う。

同じことが起こったときに、果たして冬馬は奈美子さんの相手のように、「瀬里さんが欲しい」と夫に宣言してくれるのだろうか?と。



「久しぶりだね〜瀬里さん!元気だった?」

「元気なわけないよ。冬馬…会いたかった」

3か月ぶりに彼の顔を見た瞬間、自分でもおどろくほどに甘い声が出た。会えない間、いかにこの時間を求めていたかを思い知る。

それなのに。

冬馬といえば、まったくいつもの様子と変わらない。綺麗な顔、ニコニコの笑顔、優しい声。

あまりにもいつも通り。会えない時間が苦しかったのは私だけのような気がして、つい言葉を引き出そうと柄にもなく拗ねてみる。

「冬馬ったらほんとに私のこと忘れてたんじゃないの?私は、奈美子さんの件があまりにもショッキングで大人しくせざるを得なかったけど…」

「あれはほんと、下手をうったよなー。お互い割り切ってる関係なのに本気になっちゃった、ってやつ?ははッ、あほだよね」

そのあまりの物言いに、私は思わず冬馬の顔を見る。

「それよりさ、瀬里さん、今日は俺の誕生日祝いだよね?凄く楽しみにしてたんだ」

冬馬の視線は、私を通り越して、ロレックスが入ったベッドサイドの濃紺のレッスンバッグに注がれている。

「俺のリクエスト、きいてくれたんだよね?」

「そうね。もちろん…」

これと同じような気持ちを、つい最近味わったことがあると、ふと思う。

―ああ、アレだ。

数日前、優里にせがまれていった映画館。アニメだけれど大ヒットしていて、いつの間にか私も没頭していた。

予期しなかった濃密な時間のあと、エンドロールが流れ、館内の照明がぱっとつく。

夢のような時間から、強制的に現実に引き戻す、無慈悲な合図。

「うわ!やった!!さすが瀬里さん、センスいーなー!!俺が欲しかったやつ、さすが分かってる!!俺、今日頑張るよー」

みっともないほど声を裏返してはしゃぐ男に肩を抱かれながら、私はそんなことを思い出していた。

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