彼女の年収は、自分の2倍。格差恋愛に悩む卑屈な男がやってしまった、最悪の行為
人は買い物という魔法を使って、“なりたい自分”を手に入れる。
ならば、どれだけ買っても満たされない女は一体何を求めているのだろう―?
32歳にして年収1,200万円を稼ぐ紗枝は、稼いだお金を存分に買い物に使う「カッコイイ女」のはずだった。
だが、些細なきっかけで物欲が歪み始めた紗枝は、恋人の慎吾と破局を迎える。
心の隙間を埋めるため、超富裕層の個人投資家・喜多川の元で浪費に走る紗枝だったが、喜多川と向き合うことで自身の弱さを克服し、慎吾に自分の心をさらけ出すのだった。

クローゼットに隠してあった、真っ赤な高級ブランドの紙袋。
多分、紗枝がずっと欲しいと言っていた腕時計だろう。
―俺には買えない値段の時計。やっぱり、自分倍近い年収を稼ぐ彼女と結婚しようなんて、無謀だったのかもしれない。
千葉へと向かう総武線の揺れに身を任せながら、慎吾は今朝終わってしまったばかりの紗枝との関係を振り返っていた。
星の見えない夜を走る電車の窓が、鏡のように慎吾の姿を映し出す。
カッとなってつい言い放ってしまった別れの言葉は、慎吾自身の胸にも激しい痛みを伴いながら突き刺さっている。
でも、きっとこれで良かった。
紗枝に借金を申し込まれた時、あんな事を考えてしまった時点で…
関係を続けることは難しかったのだ。
彼女の堕ちる姿を見て、男が感じていた意外な想い
卑屈な男の前に現れたのは
「お金、貸してもらえないかな?」
そう紗枝から言われた時、慎吾の胸に湧き上がってきた感情は、呆れだけではなかった。
これで彼女と対等以上になれるという、卑屈な快感。
同棲を始めてから常に所得格差を突きつけられてきた慎吾にとって、惨めな紗枝の姿は、カタルシスそのものだったのだ。
その後、買い物を禁止したことが行き過ぎだったのは自分でも分かっていた。自分の収入で好きなものを買うことは、非難されるべきことではないはずだ。
浪費の禁止は、自分の心を守るためだったから。自分が卑屈な思いをしないように、紗枝を自分と同じ経済的ステージに縛り付けておきたかった。
―紗枝のことは好きだ。でも紗枝といると、俺はどんどん自分が嫌いになる。こうするしか、なかったんだ。
部屋を飛び出してから、一日中思考を巡らせた。だが何度考えても、たどり着くのはこの結論なのだった。

稲毛駅で下車した慎吾は、実家の方角へと足を進める。
紗枝から「部屋は好きに使っていい」というLINEが届いていたものの、しばらくの間実家で過ごすつもりだった。
快適な2人の部屋は、そのほとんどが紗枝の収入によって作り上げられたもの。卑屈な自分から逃れたい慎吾にとってあの部屋は、今は寛げる空間ではなかった。
―急に帰ってきても、母さんも困るよな。夕飯済ませて行こう。
そう考えた慎吾は、帰り道にあるファミレスへと入った。食欲はないが、何か食べなくては。義務感でメニューへと目を落としていたその時、頭上から小さな声が降ってきた。
「あれ?慎吾?」
顔を上げた慎吾も、思わず声を漏らす。
「え…カオリ?」
「うそー!ほんとに慎吾だ!高校卒業して以来じゃない?稲毛で何してんのー!」
店を出て行こうとしていたカオリは体を翻すと、はしゃぎながら向かいの席にドカリと腰を下ろす。
天真爛漫な賑やかさは、高校卒業から15年経った今も健在のようだ。
カオリは、高校時代のクラスメイト。そして、慎吾が初めて付き合った元彼女でもあった。
彼女となら、もしかして…。元カノとの衝撃の夜
浪費に苦しめられた二人
「慎吾、どうしてた?確か大学は明治に行ったんだよね。仕事何してるの?」
高校時代から全く変わっていないカオリの無邪気さ。勤めているメーカーの名前を伝えると、「大企業じゃん!エリートだエリート!」と、大げさに驚いてくれるのが痛快でもある。
素朴で、庶民的で、ノスタルジック。その全てが、紗枝といる時には味わえない感覚だった。
「本当久しぶりだね。カオリは今どうしてるの?もう結婚した?」
何気なく慎吾が投げた質問に、カオリはバツが悪そうに笑った。
「あー、私バツイチなんだ。看護学校卒業してからすぐ結婚したんだけど、旦那が車バカでさ。パーツだのなんだの浪費が止まんないから、すぐ離婚したの。仕事はね、船橋の病院で看護師してるよ。今日もこれから夜勤なんだ」
「へぇ、そうなんだ…」
金銭感覚の違いによる別れ。こうも早く、同じ悩みを持つ人物と出会うとは思っていなかった。
ましてやそれが元カノだとは…。巡り合わせの妙に感じ入っていると、カオリが身を乗り出しながら言った。
「ねぇ、しばらくこっちにいるんだよね?私もう行かなきゃいけないんだけど、今度ご飯行こうよ!来週末とかどう?」
正直、失恋したばかりの今は女性と食事に行く気にはなれない。だが、同じ苦しみを味わっていたかもしれないカオリとだったら、有意義な時間を過ごせそうだった。
慎吾は少しの時間考え込むと、意を決して微笑んだ。
「おう、行こうか。何食べたい?」

翌週の土曜日、2人はカオリの強いリクエストで亀戸駅の『焼肉伝説 肉衛門』を訪れていた。
「んん〜、おいしい!焼肉なんて超久しぶりだよ〜」
美味しそうに食べるカオリを見ていると、慎吾にも食欲が戻ってきそうだった。
ふと、パックのゼリーを咥える紗枝の横顔を思い出す。
―忙しい紗枝とは、亀戸まで焼肉を食べに来るなんて出来なかったな。もしかしたら、俺に合っているのはこういう子の方なのかも…。
高校時代に戻ったかのような開放感からだろうか。慎吾はそんなことをボンヤリと考えながら、生中のグラスを傾けた。
ビールを吞み下す慎吾の喉仏をしげしげと見つめながら、カオリがため息を漏らす。
「てか慎吾、かっこよくなった。私やっぱり慎吾と別れなければ良かったなぁ」
慎吾は思わずビールを吹き出す。激しくむせながらもどうにか「急に何言ってんだよ」と返すと、カオリは熱を帯びた眼差しで慎吾を見つめ直した。
「あ〜、酷い!私、結構本気で言ってるんだけどなぁ。ちょっと傷つく」
俯くカオリを目の前にして、先ほど脳裏を掠めた考えが、再び慎吾の頭に浮かぶ。
素朴で庶民的な地元の元カノと、復縁。
ハイスペックで浪費家の彼女との結婚よりも、よほど現実的かもしれない。
「カオリ…」
慎吾はジョッキから手を離すと、カオリの方へと伸ばしかけた。
だがその時、カオリが衝撃的な言葉を口にしたのだった。
元サヤの夢を打ち砕く、身勝手な主張
金銭感覚の一致以上に大切なこと
「もう働くの疲れちゃったよ。私女なのに、こんな頑張って働く意味なくない?慎吾と結婚してれば今頃、大企業会社員の奥さんで専業主婦だったよね。旦那のお金でのんびり楽してさ。贅沢しなくても、たまーにご褒美にバッグとか買ってもらえれば、それで十分幸せだよね」
ノスタルジックなときめきに浸っていた慎吾の頭を、鈍器で殴られたかのような衝撃が襲う。
幸せにしてもらうことしか考えていない、あまりに他力本願な考え。
紗枝の口からは、絶対に出ない言葉だった。
呆気にとられている慎吾を見て、カオリは慌てて取り繕う。
「なーんてね!冗談冗談!でもさぁ、慎吾も今彼女いないんでしょ?私なんてどうかなぁ。浪費癖とか全然ないし。やっぱり金銭感覚は似てる同士で付き合うのが幸せだと思うんだよね」
カオリは愛らしい子猫のような瞳で、慎吾に縋った。だが、先ほどの衝撃ですっかり酔いが覚めた慎吾は、もはや一刻も早くこの場を去りたい気持ちになっていた。
「ちょっと飲み過ぎじゃない?そろそろ帰ろう。ゆっくり話せて楽しかったよ」
慎吾が乗り気でないことを感じ取ったのだろう。カオリが髪の毛先をくるくると指で弄びぶと、一転して白けた態度で目線を外す。
そして、悪びれもせず言い放った。
「そうだね〜。じゃあ慎吾、ごちそうさまでーす!」

翌日の朝、実家2階の自室で目覚めた慎吾は、昨晩の焼肉でもたれた腹を抑えるようにして階下のリビングへと降り立った。
すでに両親は出かけてしまったのだろう。14畳のリビングは無人だ。慎吾はコップに水道水を注ぐと、自身が小学生の頃から家に存在している古ぼけたソファに腰を下ろし、静寂に包まれた実家のリビングを改めて見回した。
もう春先だというのに出しっ放しになっているコタツ。
保険会社のロゴがでかでかと主張するカレンダー。
今やほとんど出番のないFAX機能付き電話に、それに被せられた母の趣味であるレース編み。
どこを見てもお世辞にもセンスがいいとは言えない、生活感の滲んだ部屋。
この3年間紗枝の高級志向なセンスに晒されていた慎吾はいつのまにか、これまでにない居心地の悪さを実家に感じるようになっていた。
―ハァ、家に帰りたい…。
ため息をつきながらコップの水道水を一口飲むと、昨夜カオリが言っていた言葉が心の中で反芻される。
ー専業主婦になって楽がしたいー
「家庭を守りたい」でも、「夫を支えたい」でもなく、「楽がしたい」。
男に幸せにしてほしいという、浅ましい本心。あれが世の中の多くの女性の本音だとしたら…心の底がゾッとする。
自然と、紗枝が大量に買ったルームウェアや、自力で買ったカメリアリングのことが思い起こされた。
―あのルームウェアは、俺のためを思って紗枝ちゃんが買ってくれたものだったな…。どんなに高価な買い物も、紗枝ちゃんは全部自腹で買っていた。思えば、俺に何かを買ってくれとねだったことなんて、たった一度もなかったんだ…。
自信のない男が決意した、ありえない行動
根を張ってしまった不安
少しの間考え込んでいた慎吾は、思い立ったかのようにコップの水を一気に飲み干す。
そして、ギシッと大きな音を立ててソファから立ち上がると、手早く身支度を整え家を飛び出した。
駅に向かって足早に歩きながら、慎吾は強く思う。
―俺…やっぱり紗枝ちゃんが好きだ。欲しいものは自分で努力して買う、カッコイイ女性。そんな自立した紗枝ちゃんのことが、やっぱりどうしても好きなんだ。
昨夜、カオリとデートしたことで浮き彫りになった本当の気持ち。
紗枝を愛している。それが、ごまかすことのできない本心だった。
だが自分の心がハッキリと見えたことで、慎吾は自らの不安にまたしても向き合わなければならなかった。
不安はまるで、バオバブの木のようだ。
放っておけば根を張り枝を伸ばし、星そのものを破壊してしまう。
対処法は、ただ一つ。
“小さな時に摘み取っておくこと”だ。
―紗枝ちゃんを愛している気持ちに間違いはない。でもこれから先、僕の収入で彼女を満足させてあげられる自信はゼロだ。紗枝ちゃんは、俺でいいのか?年収が自分の半分しかない男を選んで、後悔しないのか…?
卑屈な不安が、再び根を張り始める。
紗枝に復縁を申し込むにあたって、慎吾はこの不安を早く摘み取ってしまわなければならなかった。

電車を乗り継いで慎吾がたどり着いた先は、御徒町だった。
―紗枝ちゃんが本当に、自分の欲望を全て自力で解消できる女性なら…どれだけ浪費家だって構わない。俺に自分と同じだけの財力を本当に求めないのであれば、俺は卑屈になる必要はないはずだ。
そんなことを考えながら、慎吾は歩く。そして、めぼしい宝飾店を見つけると、ゆっくりと足を踏み入れた。
―考えようによっては、あれだけ稼ぐ紗枝ちゃんは、資金面でも頼りになる最高の伴侶になるんじゃないだろうか?俺が卑屈にさえならなければ、きっとすべて上手くいく。そのためには、彼女の愛を信じるために、復縁前にしっかり”試しておかなければ”いけない…。
不安を摘み取っておきたい。彼女よりも低収入であるが故に、卑屈になってしまう不安を。
慎吾は“紗枝”という欲望を、なるべく低リスクかつ低コストで手に入れたかった。
紗枝が欲望を従える浪費の女王であるならば、慎吾は欲望に怯える堅実な下僕だった。
慎吾は中古ジュエリーのショーケースの前に立つと、店主に尋ねた。
「すいません。アクアマリンの指輪、ありますか?なるべく古くて…それから、安いものがいいんです」
紗枝が慎吾に、金ではなく愛だけを求めているのなら。
愛する慎吾が大切にしている指輪であれば、どんなにみすぼらしい物でも喜んで受け取ってくれるはずだ。
「こんなのどうですかね。どれもノーブランドですけど」
暗い瞳をした慎吾の前に、店主がいくつかの指輪を運んでくる。
―彼女ならきっと、このテストに合格して、俺を安心させてくれるはず…。
そう思いながら慎吾は、“祖母の物”と言ってもリアリティを損なわない指輪をひとつ摘まみ上げる。
誰のものだったかも知れない古く粗末なアクアマリンの指輪が、慎吾の手の上で鈍く光った。
ーFin.

