26日放送、テレビ東京「SPORTSウォッチャー」では、「レジェンドを襲った病魔 奇跡の復活を支える”家族愛”」と題し、かつてサッカー日本代表で背番号10番を背負った木村和司氏(58歳)の現在を伝えた。

木村氏は、1980年代の日本サッカー界を牽引した一人。21歳、大学3年生の時に初めて日本代表に選出されると、大学卒業後は日産自動車に。1985年、W杯アジア最終予選の韓国戦では、30mのフリーキックを決めるなど数々の伝説を残した。

「あの頃は3本に1本は絶対に入れる自信があったもん」と振り返る木村氏。国際Aマッチの連続ゴール数は釜本邦茂氏や三浦知良を上回る6試合で、28歳の時には日本人選手初のプロ契約を果たしている。

「結局のう、基本は遊びだから。遊んでるかどうか。楽しそうにね。楽しそうじゃないと観ている人も楽しくないもんな。今の代表は楽しそうじゃない。自らがプレッシャーをかけてる。だから体が動かんようになる。香川なんかもそう。10番だからやんないといけないとかさ。そうなると全然ダメよ」

現在の日本代表について、こう語った木村氏だが、昨年1月に脳梗塞で倒れる事態に。一命こそ取り留めたものの右半身は麻痺し、今も家族とともに懸命なリハビリに励んでいる。妻・祐子さんは「もう全く動かない。手とか足が勝手に落ちてると分からない。落ちてても気づかないで引きずっていたり。本人は全く感覚がないので曲がって寝させているかもしれないし、実は捻挫してたり。そんなのが何回もありました」と振り返る。

その背景には、2010年、低迷する横浜F・マリノスの監督を務めたことも関係するという。「やりたかった。経験したかった」という木村氏だが、成績は上がらず、自分自身も日に日にやつれていった。

「そりゃ難しかったよ。だって下手くそなんだもん。こんなことしかできんのかって感じ。これ本当にプロなのって感じ」と話すと、祐子さんは「ストレスでものすごく甘いものとか欲しがって、すごい食べたり飲んだりしていた。病院に行った時に糖尿病だから、それも重度だからすぐに入院と言われたんですけど、それはできないってことで治療し、最初はインスリンを打ってた」と明かす。

だが、努力の甲斐なく、2011年に監督解任を通告された木村氏。祐子さんはこの時のことを「自分なりに耕して芽が出て今からっていう時に辞めさせられたことに対して相当辛かったので1、2年くらい何も仕事してくれなかった。辛かった、本当に」と話す。

脳梗塞で倒れ、右半身に麻痺が残って以降は、妻や娘達の支えにより現在は歩いたり、箸を使えるほどにまで回復している木村氏だが、祐子さんは「どうしてもボールを蹴ってもらいたい」と、長女も「やっぱり蹴ってる姿が一番いい」などと語る。

それでも病気後で変わった点を訊かれると「ずいぶん丸くなった」という祐子さん。解説の仕事も受け始めたという木村氏は、取材の最後「もう1回監督やりたいですか?」と訊かれると「やってみたい。真面目に遊ぶ。真面目におちょくる。なんでものう一回経験しないと分からんから。もう分かったから。面白いと思うで。今度わしがやるサッカーは」と意欲を見せた。