「好きで体が弱いわけじゃない」小児がん治療の後遺症でいじめ受けた女性が抱える生きづらさと「ヘルプマークの意味」
1歳2か月で希少がん「ユーイング肉腫」を発症した愛迷みんみんさん。治療後も後遺症が残る一方、外見からはわかりにくいため、「元気そうなのに」と理解されずに苦しんできました。学生時代のいじめや社会に出てからの葛藤やみんなに知ってほしいという、「ヘルプマーク」の意味とは。
【写真】「すごい綺麗」がんサバイバー、後遺症によるいじめなどを経て、モデルとして花開く愛迷みんみんさんの現在(全16枚)
「見た目は普通」だから理解されなかった学生時代
── 1歳の頃にがんが発覚し、幼少期は病院で治療を続けていた愛迷さん。がん治療の影響で、子どものころから後遺症と向き合ってきたと伺いました。どのような後遺症があったのでしょうか。
愛迷さん:がん治療の放射線を浴び続けた結果、小学生のころから、左側の肺が機能しなくなり、心臓の筋肉の動きも低下してしまいました。また、左腕が動かしにくいという後遺症も残ったため、学校の体育の授業が苦痛で…。走るのもゆっくりだし、すぐに息が上がってしまうので長時間運動することができませんでした。
── 運動がしづらいことで、嫌な思いをしたこともあったそうですね。
愛迷さん:体育でチーム分けをするときには、私と同じチームになるのを嫌がる子が多かったです。「お前と同じチームは嫌だ」と言われたこともありました。「好きで体が弱いわけではないのに」ってショックでしたね。でも、あのころの私は、自分の気持ちを伝えることが苦手だったので、周りからの意地悪な言葉にも言い返すことはできず、ひたすら我慢していました。
── 周囲との違いに苦しんでいた、と。
愛迷さん:そうですね。「みんなと同じように走りたいのに、できない」というもどかしさがずっとありました。中学生になると、靴を隠されたり、悪い噂を流されるなどのいじめに発展して…。高校時代には、私が写った写真の顔に落書きされて、廊下に貼り出されたこともありました。
── 誰かに相談したりはしなかったのですか?
愛迷さん:嫌なことがあっても「我慢すればいいや」と考えてしまう性格だったので、「誰かに相談しよう」という発想にはならず、抱え込んでいました。それに、「自分の体が弱いのも事実。自分も悪いんだ」とも思っていて。
でも、溜め込んでいるうちに、どんどんつらくなるんですよね…。そのうちに「なんで私、生きているんだろう」と考えるようになり、自分を傷つけたこともありました。すぐ母に見つかってしまい、「がんの治療で、たくさんの先生や看護師さんに救ってもらった体なのに、どうして自分で傷つけてしまうの?」と強く叱られました。
── 愛迷さんも、お母さんも、つらかったですよね…。その言葉を聞いたとき、どう感じましたか?
愛迷さん:目が覚める思いでした。母の言葉に、「せっかく助かった命なのだから、粗末にはしてはいけない」と、素直に思うことができて。その後は自傷行為をすることはありませんでした。とはいえ、周りからのいじめは相変わらずだったので、学生時代はひたすら耐える日々。「いじめてくる相手は、まだ心が子どもなんだ。しょうがない」と自分に言い聞かせながら過ごしていました。
今振り返ると、一番つらかったのはどんな悪口よりも「理解してもらえないこと」だったのかもしれません。私だって、みんなと同じことができるのならしたい。でもできないから仕方がない。その気持ちをわかってもらえないことが、学生時代の私の心を傷つけていたんだと思います。
普通に働くことが、こんなにも難しかった
── 社会に出てからは、臨床検査技師として働き始めたそうですが、そのころも「理解されない」という苦しさは続いていたのでしょうか。
愛迷さん:はい。働き始めてからも、普通の人とは同じように働けない現実にぶつかりました。
私は、幼いころにたくさんの医療者の方に助けてもらった経験から、「今度は私が誰かを支える側になりたい」と考えるようになり、大学では臨床検査技師の資格を取得。フルタイムでは体力的に難しいと考えて、週3回勤務のパートの仕事に就くことに。
しかし、実際に働き始めると、長時間立ち続けることが苦しく、体力的にもかなり無理をしました。さらにこのころには、「左腕が上がらない」という後遺症も目立ってきていて…。
職場では、私の障害について共有していたので、患者さんの移動をサポートするときには、同僚を呼んで手伝ってもらうようにしていました。でも、あるとき「このぐらいの介助、ひとりでできるでしょ」と言われてしまって。いっけんすると、私は「ただ疲れやすく体力のない人」なのかもしれません。見えない部分にあるつらさや制限を、周囲に理解してもらうことは簡単ではありませんでした。
── かなり無理をしながら働き続けていたのですね。
愛迷さん:仕事が終わって帰宅すると、もう体が動かなくなるほどの疲労感でした。1日おきに休みを取れるようなシフトを組んでもらっていたので、なんとか6年間働き続けることができましたが、体も心もだんだん限界になってしまって。手の震えなどの症状が現れるようになり、最終的に適応障害の診断をもらいました。
普通に働いて生活する。みんなが当たり前にやっていることの難しさを痛感しました。
「理解してくれる人がひとりいるだけで救われる」
── 仕事をしながら、SNSでの発信活動も始めていましたね。
愛迷さん:はい。最初は、自分の経験を発信することに抵抗がありました。でも、「見えない障害」に悩んでいる人もいるということを、たくさんの人に知ってもらいたいと感じ、これまでの病気のことや、今感じている困難について公表することにしたんです。
それからは「どんな配慮が必要なのか」についても積極的に発信するようになりました。たとえば、外見からはわからなくても、助けや配慮を必要とする人がつける「ヘルプマーク」。私は、ヘルプマークをつけて電車に乗って通勤していましたが、席を譲ってもらったり、声をかけてもらったことはほとんどありませんでした。私自身、ヘルプマークの存在を知ったのは社会人になってからだったので、まだ認知度が低いと感じ、SNSを通してヘルプマークの意味を発信したりもしました。
── どのような反応をもらいましたか?
愛迷さん:「障害者は電車に乗るな」など、心ないコメントを投げられ、心を砕かれそうになったこともありました。いっぽうで「自分も同じ経験で苦しんでいる」「勇気をもらった」という共感の声もたくさんいただいて。それらの言葉に私自身が支えられましたし、「理解してくれる人がひとりでもいれば、心は救われるんだな」と実感することができました。
── 直接対面していなくても、「理解してくれている存在」がいることを知ったことで、心が楽になったのですね。
愛迷さん:そうですね。「見えない困難について知ってほしい」という気持ちで始めた発信活動でしたが、たくさんの方に励まされるうちに、「当事者だからこそ、伝えられるメッセージがあるのでは」という気づきにつながりました。今は、「自分の言葉で誰かを支えたい」という思いを胸に、投稿を続けています。
病気を経験したことも後遺症があることも、全部含めて私自身。SNSでの発信活動を通して、こんなふうに考えられるようになり、ようやく自分自身と向き合えるようになったと感じています。傷ついたり葛藤しながら、それでも自分を認めてあげることができるようになった。このことが、わずかながらでも「前進していること」を私に感じさせてくれています。
取材・文:佐藤有香 写真:愛迷みんみん

