41歳で急死した甲子園優勝投手…清原和博が「心に残る数少ない投手でした」と悼んだ男の順風満帆だった「前半生」

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プロ野球史上最大のミステリー「KKドラフト」から41年、いま初めて明らかになる物語――。あのとき、球界に渦巻く虚々実々に翻弄されたのは桑田真澄と清原和博だけではなかった。脚光を浴びた2人の周縁で、誰が動き、誰の運命が書き換えられたのか。本当の主役は誰だったのか。 

連載『1985 英雄たちのドラフト』

第4回「石田文樹」(前編)

横浜ベイスターズの打撃投手

2008年7月15日、横浜ベイスターズ(現・横浜DeNAベイスターズ)に在籍する一人の打撃投手が他界した。石田文樹。1984年夏の甲子園を制した取手二高のエースである。

3月のオープン戦の期間中に体調不良を訴え、検査の結果、直腸がんが判明。翌月、摘出手術を受けるも、がんは転移しており、現場復帰を願いながら抗がん剤治療を続けたが、7月に体調が急変、帰らぬ人となった。41歳の若さだった。

『日刊スポーツ』(2008年7月16日付)は、往年の甲子園優勝投手の夭逝を一面で大きく報じ、15日夜、横浜スタジアムにて行われた横浜ベイスターズ対広島東洋カープでは半旗が掲げられ、試合開始前に両球団の選手、審判、観客で黙祷、ベイスターズの選手全員が喪章を付けて試合に臨んだ(試合は4対2で広島の勝ち)。

「突然のことで大変驚き、ショックを受けています。84年夏のことは、昨日のことのように覚えています。プロ野球を含め、対戦した中で、心に残る数少ない投手でした。心は通じ合えていたと僕は思っています」(清原和博のコメント/同)

「今週お見舞いに行こうと思っていたのですが……。びっくりです。ともに青春時代を過ごしてきた仲間。僕が結構長く(プロを)やったこともあって『凄いなあ。高校時代が懐かしいな』と言われて『そんなことないですよ先輩』と言ったりとか、そんな話をしていたのを思い出します」(桑田真澄のコメント/『スポーツニッポン』2008年7月16日付)

17日の通夜には、横浜ベイスターズの佐々木邦昭球団社長、田代富雄2軍監督、西武、巨人で活躍した同学年の大久保博元ら約900人が参列。18日の告別式には、大矢明彦監督をはじめとする当時のベイスターズ首脳陣、スタッフ、選手がユニフォーム姿で勢揃い、山下大輔、佐々木主浩らベイスターズOB、2年間、ベイスターズで同僚だった小宮山悟、吉田剛、中島彰一といった、往年の取手二高の優勝メンバーら多くの野球関係者が駆けつけた。

「この2、3日はずっと泣きっ放しでした。練習でも試合でも石田さんの影がちらついてたまらない。ともに歩いてきたこの20年間を誇りに思います」(石井琢朗の弔辞/『日刊スポーツ』2008年7月19日付)

起伏に富む石田文樹の野球人生だが、前半生は順調そのものと言っていい。

甘いマスクで大フィーバー

取手二高1年生の秋季大会よりエースとしてマウンドに立ち、1983年センバツ以降、3度の甲子園に出場。甘いマスクはすぐにマスコミの目に留まり、ティーン誌に幾度となく採り上げられた。

84年センバツ開幕前の『セブンティーン』(1984年3月13日号)では単独インタビュー、(3月27日号)では「もうすぐヒーロー センバツの超魅力選手たち」なる特集ページが組まれ、桑田真澄、清原和博、田口竜二(都城高校)といった人気球児を押しのけ、扉のグラビアに登場している。

《センバツが近づくにつれて、石田くんのピッチングがあがってきた。毎日100球、力いっぱいの投げこみ。キャッチャーのうしろで見てて、速球がこわかった。うん、いける!石田くんの笑顔が、甲子園で見られるのももうすぐ‼》(同)

ベスト8で終わった84年センバツ直前でこれなのだから、PL学園を破って全国制覇を成し遂げた夏の甲子園の直後ともなると“石田フィーバー”とも言うべき状況が招来する。

《それにしても、すごかった。石田くんのがんばり、吉田くんの2ラン、中島くんの決定的3ラン……、みんなほんとに楽しみながら野球やってた。(中略)でももっとすごかったのは、宿舎生活。前代未聞の海水浴をはじめ、クーラー自由、ジュースもいっさい自由。石田くんなんか「飲みすぎて、おなかがガッポンガッポンしてる」》(『セブンティーン』1984年9月4日号)

《“取手二、優勝!”の感激から1ヵ月、石田文樹くんの家に遊びに行ってきちゃった。(中略)「もうヒマですよ、ヒマ。ふつうの高校生にもどったら、ヒマまくってる。おかげで太ってブクブク! いちど、遊びにきてくださいよぉ」そんな石田くんからの電話に、さっそくSTはご訪問しちゃったのだ。

上野から急行で50分、タクシーで15分。石田くんの家は、のどかな畑がつづく田園の中に。(中略)こういうとこで、やさしくてテレ屋の性格が作られたんだね!》(『セブンティーン』1984年10月9日号)

10月の奈良国体の決勝で、PL学園を返り討ちにして3年間を活動を終えると、石田の周辺はさらに騒がしくなる。

【つづきを読む】「早稲田」か「東洋」か…「プロ野球」ではなく大学に進学した甲子園優勝投手の選択

【連載の過去回を読む】

●第1回前編【「高校球児はネクラ集団」…タモリが揶揄した高校球界に突如現れた「ネアカ軍団」の快進撃】

第1回後編【「桑田にすまんという気持ち」清原和博が2年夏の甲子園決勝で敗れたあとに明かした「胸の内」】

●第2回前編【KKコンビを破った取手二高の主将が59歳になったいま語る「桑田を打てた理由」】

●第2回後編【桑田真澄に「二刀流」の選択肢があったら…高校時代に桑田と相部屋になった選手が語る「ケタ違いの野球センス」】

●第3回前編【16歳の桑田真澄が電話越しに言った「意外すぎる言葉」】

●第3回後編【PL学園時代の桑田真澄が女子と一緒に「ディズニーランド」へ…初めて語られる「16歳の青春」】

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