静岡県“ナゾのエスパルス本拠地の駅”「清水」には何がある?〉から続く

「みなと口」と名付けられた、清水駅の東口。自由通路を辿って「みなと口」を出ると、正面にはENEOSのオイルタンクがズラリと並ぶ。遠くない将来、清水エスパルスの新しいスタジアムができるのだとか。

【写真多数】倉庫街にポツンと廃駅、錆びついたタンク車、ナゾの巨大クレーンも…この記事の写真を見る(全43枚)


静岡県から42年前に消えた「清水港線」の痕跡をたどる 撮影=鼠入昌史

 そしてその先には、清水港。三保半島がぐるりと回り込むように湾内を囲み、古くからの要港だ。対岸の三保半島の東、駿河湾沿いの海岸線には、世界文化遺産にも登録された三保の松原がある。白砂青松の海岸の遠くに浮かぶ富士山は、なかなかの絶景に違いない。

 だが、清水港はそうした風光明媚な景勝地とはまた違う、大きな工場や物流倉庫などが集まる、いかにも港湾都市らしい風景が広がっている。そして、かつてこの港に沿うように、清水港線というローカル線が走っていた。

遊歩道へと姿を変えた廃線跡

 清水港線の起点は、清水駅のみなと口。かつて貨物駅だった駅前広場の隅っこに小さなホームを持ち、終点の三保駅まで8.3kmを結んでいた。

 さっそく、清水港線の廃線跡をたどってみたい……ところだが、8.3kmを歩き通しは少々キツい。ウマいことバスを乗り継いで、などと思っていたら、駅前広場にシェアサイクルのポートがあるではないですか。自転車、それも電動ならば8.3kmなんてお茶の子さいさいだ。

 そんなわけで、シェアサイクルに跨がって、まずは港に沿っているマリンロードを南に走る。文化会館の脇を抜けると、その先にはマリンロードと並ぶ遊歩道が待っていた。

 路面には、レールとまくらぎのようなものが描かれている。となれば、ここは廃線跡に間違いない。マリンロードから遊歩道に移り、先へと進んでいこう。

戦時下に開通したローカル線

 遊歩道はすぐにマリンロードの高架を潜る。その先には、車輪とレールが置かれたオブジェがあった。脇には「清水港線の歴史」と書かれた説明書き。それによれば、清水港線は1944年7月に三保駅まで開通したとある。それまでは東海道本線の支線扱いだったが、このときに清水港線と名付けられたという。

 ちょうどご時世は太平洋戦争の真っ只中。戦局いよいよ悪化して、といった状況の中で、清水港線は建設された。

 終点の三保駅の先には日本軽金属の工場がある。軍需工場への輸送路線として、まさに最優先で建設が急がれたのだろう。

 そんな時代の息吹を感じつつ、オブジェの先に進むと海沿いに開けた公園スペースに出る。陸側にはエスパルスドリームプラザやちびまる子ちゃんランド。映画館も入っているようで、清水の人々の憩いの場といったところだろうか。

ナゾの巨大クレーンが…

 この憩いの場の岸壁に面して、鉄骨でくみ上げられた巨大なオブジェのような、遺構のようなものがある。説明書きを見ると、「テルファークレーン」といい、かつて岸壁に着いた船から木材を貨車に移すときに使われたという。

 設置されたのは1928年で、当時は名古屋・神戸にしかない最新の設備だった。このあたりからも、清水港がいかに重要な港湾だったのかがうかがえる。

 テルファークレーンは1971年に使用を停止したがそのまま残され、公園として整備される際にも補修工事を経て保存されたのだとか。清水港の歴史を物語るシンボルといったところだろうか。

 そのすぐ先には、清水埠頭という駅があった。が、浪漫館という立派なビルが建っていて、駅の痕跡は残っていない。

 ここから遊歩道は消え、廃線跡は倉庫街の中に入ってゆく。

倉庫街にポツンと廃駅

 日の出町という、東京の海沿いでも聞いたことのあるような地名の倉庫街。中にいると廃線の痕跡はわからないが、地図で見ると廃線跡に沿うように建物がカーブしたり、駐車場になっていたりするようだ。

 東の岸壁沿いにも荷揚用の線路が分かれていた。いまではかたわらにクルーズ船が停泊しているが、その線路の跡は道路として残っている。

 まるで青島刑事のような気分で倉庫街の中を走り回る。バナナの倉庫はないようで、清水港線がないいまではトラックが主力。ときおり倉庫街を大きなトラックが駆け抜けてゆく。

 倉庫街が終わると、河口付近の巴川を渡る。清水港線はここを可動橋、つまり船が通るときには跳ね上がる橋を使って渡っていた。ただ、いまは橋そのものはもう撤去されていて、右岸側にうっすらと橋台の痕跡が残っている程度だ。

 巴川を渡ると、廃線跡は静清浄化センター(下水処理施設)の中を通る。その中に巴川口という駅があった。浄化センターに立ち寄って頼んでみると、ホームの跡の見学をさせてくれるという。

 巴川口駅のホームには桜の木が植えられていて、駅名標の他にはベンチまであつらえられている。職員の休憩、また一般公開などで使われているのだろうか。

 いま、浄化センターの中にある廃線の痕跡は小さなホームがひとつだけ。ただ、古い航空写真を見ると、たくさんの線路がこのあたりに並んでいたことがわかる。

 お客が乗り降りする、つまり旅客用のホームは清水港線にとってオマケのようなもの。貨物扱いがこの路線のいちばんの役割だったのだろうということがよくわかる。

工場地帯を抜けて三保半島へ

 浄化センターを出ても、南側に広がる工場・倉庫群の中を通ってゆく。一応工場の脇に路地のようなものがあるから、ここが廃線跡なのか。清水港線はいまとはまったく違う形だったのだろうが、工場や倉庫が並ぶ町という本質は変わっていない。

 工場・倉庫の間を南に抜け、日東富士製粉の工場の先からはよく整備された遊歩道、自転車専用道が見えてくる。

 日本全国津々浦々、廃線跡はとりあえずサイクリングロードにしておこうというルールがあるのだろうか。そう思ってしまうほど、廃線跡とサイクリングロードは親和性が高い。

 ここから先は、国道150号に沿うように港湾沿いを走って三保半島を目指す。

 そもそもが戦時中に軍事輸送、軍需工場への輸送を目的として建設された清水港線。だから、開業時から徹底的なまでに貨物輸送が優先されていた。首都圏にも、貨物メインで建設されたもののいまでは通勤路線と化している武蔵野線のような路線もある。

かつては日本一の黒字路線だった

 ただ、清水港線の貨物優先は生半可ではなかった。なにしろ、旅客輸送は貨物列車に客車を繋ぐ形の、いわゆる“混合列車”。貨物のついでにお客も運んであげますよ、といったところだ。

 だから、せっかく終点の三保駅の近くには三保の松原という景勝地があるのに、そこへの輸送機関としてはほとんど機能しなかったようだ。

 1964年の時刻表を開くと、清水港線の旅客列車は1日4往復しか設定されていない。沿線の人々の通学や通勤、それも工場への通勤が主だったのだろう。

 貨物路線なのだからそれでも充分。むしろ1960年には国鉄では日本一の黒字路線(100円稼ぐのにかかるコストが54円で日本一)になったほどに活躍している。

時代の波には逆らえない

 しかし、時代は徐々に鉄道からトラックへ。貨物輸送の主役が自動車へと切り替わると、清水港線も静かに存在感を失ってゆく。

 旅客輸送も、1972年からは1日たったの1往復だけになっている。下りは朝に清水駅を出発し、上りは夕方の清水行き。貨物とともに工場への通勤客を運んでいた。

 そして、時代の波に抗えず、1984年に清水港線は廃止されたのである。

 折戸湾の南端で国道150号と分かれると、清水港線は進路を変えて三保半島を北上する。西には港、東には県道199号。折戸駅の跡はホームなどの痕跡は一切なく、ちょっと広めの公園になっているだけだ。

 そのすぐ東、県道を渡った先には東海大学静岡キャンパスがある。東海大学にとっては最初のキャンパスで、開校時は本部を置いていた由緒ある場所だ。だから、貨客混載の清水港線に乗って通学した大学生もいたのかもしれない。

 折戸駅跡から先も、ずーっと遊歩道。自転車ですれ違うのは地元の高校生くらいで、あとは散歩している地元の人の姿がちらほらあるくらいだ。そうして終点の三保駅へ。そこは、三保ふれあい広場という公園になっている。

 公園の中には、機関車とタンク車が展示されていた。日本軽金属の工場へと続いていた引き込み線を通じ、アルミナ(酸化アルミニウム)を運んだタンク車なのだとか。その脇には、三保駅の古いホームが残っている。

 公園の中には桜が咲き乱れ、一般的なものよりもだいぶ低いホームに腰掛けて、地元のおじいさんたちがお花見を楽しんでいた。清水港線がなくなって、早40年以上が経っている。

撮影=鼠入昌史

(鼠入 昌史)