【豊臣兄弟!】細身イケメンではなく力士並みの巨漢… 浅井長政が裏切りを決意した兄・信長の侮辱
浅井長政が細身のイケメンに描かれる理由
歴史ドラマの多くで、浅井長政はスラリとしたイケメンに描かれている。NHK大河ドラマ「豊臣兄弟!」も例外ではない。長政を演じる中島歩は細身で、身長も184センチと高く、彫りの深いイケメンである。江戸時代にまとめられた『祖父物語』などで「天下一の美人」と讃えられる信長の妹、市が嫁いだ相手なので、イケメンでないと釣り合いがとれないという判断が働いているのではないだろうか。
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「豊臣兄弟!」の長政も、市への心配りを欠かさず、義兄である信長には忠実で礼を欠かさない、まさしく見た目も内面も絵に描いたような好青年である。

第13回「疑惑の花嫁」(4月5日放送)には、近江(滋賀県)の常楽寺(近江八幡市)で、信長と長政が相撲をとる場面がある。そこでは信長が圧倒的に強く、長政が何度挑んでも勝てない、という描き方になるようだ。
話が少し脇に逸れるが、信長は相撲好きだった。太田牛一の『信長公記』には、元亀元年(1570)のこととして次のように書かれている。〈三月三日、信長は近江の国中の力士を常楽寺に召し寄せ、相撲をとらせて観覧した。/鯰江又一郎・青地与右衛門が勝ち抜いた。これによって、青地・鯰江を召し出し、二人に金銀飾りの大刀と脇差を賜り、この日から家臣として召し抱え、相撲奉行に任命した〉(中川太古訳)。

これが第13回に登場する相撲大会のことと思われる。以来、信長は本能寺の変の前年である天正9年(1581)まで、同じ常楽寺で何度も相撲大会を催し、『信長公記』にもあるように、強い力士を家臣に召し抱えることもあった。
力士を上回るほどの巨漢
さて、常楽寺での相撲観戦に浅井長政が同行したかどうかは、記録がないのでわからないが、仮に信長と長政が相撲をとった場合、『豊臣兄弟!』で描かれたように、信長のほうが圧倒的に強かった、ということだけはないだろう。というのも肖像画に残る長政の姿は、細身のイケメンとは正反対で、力士のような、あるいはそれ以上の巨漢にしか見えない。

長政の肖像画は2つ伝わっている。1つは浅井家の菩提寺である高野山小坂坊に伝来した持明院本で、小谷城での自刃から17回忌に「有人」が描かせたものだという。月代(さかやき)を大きく剃り上げ、二重顎で、体もかなりふくよかだ。もう1つは、長政の一周忌に徳勝寺源秀が描かせたもの(小谷城址保勝会蔵)で、生前の記憶がよりあたらしい時期のものだが、前者よりいっそうふくよかで、まさに巨体の力士といった風情である。
身長や体重についての記録はないが、長政の姉だとされる見久尼は身長が5尺8寸(約176センチ)、体重が28貫(約105キロ)もあったという。男性の長政の巨体はそれどころではなかっただろう。〈中くらいの背丈で、華奢な体躯〉(ルイス・フロイス『日本史』)だった信長が相撲を挑んで、勝てたはずがないと思うのだが。
それはともかく、信長が常楽寺で相撲観戦を楽しんだ翌月にあたる永禄13年(1570、元亀元年)4月、浅井長政は義兄の織田信長に反旗をひるがえした。
信長は3万の兵を率いて京都を発ち、越前(福井県北東部)の朝倉義景の討伐に向かった。手筒山城(福井県敦賀市)や金ヶ崎城(同)を攻略し、木芽峠を越えて朝倉氏の本拠地の一条谷(福井市)に迫ろうとしたところで、長政が離反したという知らせが届けられたのである。
長政は信長の家臣扱いが嫌だった
『信長公記』にはこう書かれている。〈木目峠を越えて越前中央部へ侵攻する計画であったが、そこへ北近江の浅井長政が背いたとの情報が次々に入った。しかし、浅井は信長のれっきとした縁戚であり、その上、北近江一帯の支配を許していたのだから不足があるはずはない。信長は、浅井が背いたというのは誤報であろうと思った。けれども、事実であるとの報告が方々からあった。信長は「やむをえぬ」と言って、越前から撤退することにした。金ガ崎の城には木下藤吉郎を残しておき、本隊は四月三十日、朽木元綱の奔走で朽木越えで京都に撤収した〉(中川太古訳)。
実際、信長には長政の離反が信じられなかったようだ。実の妹を嫁がせた縁戚で、北近江一帯を支配することを認めていたのに、なぜ自分に背く必要があるのか、と。
信長自身、毛利元就に送った7月10日付の覚書に、浅井は〈近年別て家来せしむるの条、深重隔心無く候き、不慮の趣是非無き題目に候事(近年、自分の家来にして、心隔たりなく付き合ってきたのに、思いがけず理不尽な結果になってしまった)〉と書き、長政の離反に納得がいかない胸中を見せている。
ただ、太田浩司氏は、信長がこの覚書に記した意識に問題があったとみる。すなわち〈信長は浅井を家臣だと思っていたのである。浅井側にしてみれば、独立した一大名でありながら、秀吉や光秀同様、信長の家臣として扱われる。これが、どうしても許せなかったのだろう。浅井氏は一信長の家臣となることを拒むために、挙兵したと考えるべきだろう〉(『浅井長政と姉川合戦』淡海文庫)。
そうだとすれば、信長の慢心が招いた誤算だといえるだろう。
織田か朝倉か選択を迫られて
長政が信長に離反した理由は、かつてはこう説明されてきた。浅井と朝倉は長いあいだ同盟関係にあり、その朝倉を織田が攻めるという以上、朝倉についたのは当然だ、と――。しかし最近では、浅井が朝倉と事実上の同盟関係を結んだのは、織田と同盟を結んだのとほぼ同時期だったと考えられている。
だから、長政は迷ったに違いない。柴裕之氏は次のように書いている。〈いずれにせよ、浅井氏はこの時、織田・朝倉両家と両属関係を持つ国衆であったことは間違いない。/そしていま、浅井が関係を持つ織田・朝倉両氏が抗争することになった。この状況下で、浅井氏が領国「平和」を維持していくためには、両属関係のままでは難しく、織田・朝倉両家のどちらにつくか、選択することがせまられた。そして、浅井氏が選んだ「道」は、朝倉家への従属関係を優先することだった〉(『織田信長』平凡社)。
これに前出の太田氏による次の記述を加味すると理解しやすい。〈元亀元年(1570)四月の浅井長政の決断は、朝倉氏との単一同盟を重視したものではない。武田信玄をはじめとする、本願寺・一向一揆・比叡山・三好三人衆・朝倉氏によって構成された反信長包囲網に加わることを表明したと考えるべきだろう〉(前掲書)。
この時点では、少なくとも浅井長政の眼には、「反信長包囲網」のほうが勝ち目はあるように見えた、ということだろう。しかも、信長を選べば「家臣」としてあつかわれてしまうのだからなおさらである。
しかし、信長と対等の同盟を組んでいたはずの徳川家康も、次第に家臣同様にあつかわれるようになったことは、よく知られる。長政もここで選択を誤らなければ、家康同様の立場を手にしたかもしれなかったのだが……。
香原斗志(かはら・とし)
音楽評論家・歴史評論家。神奈川県出身。早稲田大学教育学部社会科地理歴史専修卒業。著書に『カラー版 東京で見つける江戸』『教養としての日本の城』(ともに平凡社新書)。音楽、美術、建築などヨーロッパ文化にも精通し、オペラを中心としたクラシック音楽の評論活動も行っている。関連する著書に『イタリア・オペラを疑え!』(アルテスパブリッシング)など。
デイリー新潮編集部
