雅子さまが電話で「皇太子妃辞めます」…66歳を迎えられた「天皇陛下」 「ご別居」も「人格否定発言」もあった“苦難の時代”をいかに乗り越えられたのか
2月23日、天皇陛下は66回目のお誕生日を迎えられた。即位されて間もなく丸7年。令和の御世の象徴として、国民の敬愛を集めるとされる陛下だが、その道のりの中には、苦難の時もあった。中でも最たるものは2004年、いわゆる「人格否定発言」を世に問われた1年であっただろう。前年末から雅子さまの心身の不調が悪化。ご別居まで余儀なくされる中、苦悩窮まった陛下(当時は皇太子殿下)は時に涙を流されることもあったという。当時、「週刊新潮」はこの様を詳報している。当時の記事を振り返りながら、その激動の1年を辿ってみよう。
【前後編の前編】
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【写真】スーツをビシッときめて…。2年間の英国留学を終え、帰国した際の雅子さま(1990年、成田空港)
慰霊の旅
天皇陛下はこの1年、大阪・関西万博の開会式にご臨席された他、戦後80年を記念し、硫黄島、沖縄、広島、長崎、そして東京大空襲の犠牲者を祀る東京都慰霊堂(墨田区)を相次いでご訪問。7月には、お2人揃ってとしては1年ぶりの海外となる、モンゴルご訪問も果たされた。ご多忙な1年だったように思われるが、その象徴としてのご存在の大きさを、国民はおおいに認識したのだった。

軽井沢でご静養
遡る22年前の2004年、陛下、つまり当時の皇太子殿下は危機にあった。雅子さまの「適応障害」公表と、それを巡るご対応に、である。
その前年の年末、帯状疱疹の治療のため、雅子さまはご入院。退院された後も、「十分に体調が回復されるまで」として、翌年春までのご公務取りやめが発表された。しかし、春になってもご回復の兆しは見られなかった。実はこの時、雅子さまはお住まいの赤坂御所を出られ、幼い愛子さまと一緒にご実家・小和田家の軽井沢にある別荘で静養されていた。母・優美子さんも同伴。皇太子殿下(当時。以下同)は2回に分けて計9日間訪問されたものの、別荘にお泊まりになったのは2日間だけで、あとは近くのホテルに泊まられた。
容体は深刻
ご静養が長期にわたったため、メディアもその真相を探り、報じた。「容体は深刻」と報じるメディアもあった。
そんな中、5月10日に“事件”は起きた。「週刊新潮」2018年6月21日号は当時を振り返ってこう報じている。
〈2004年5月10日、欧州各国ご訪問を前に皇太子さまは、東宮御所で恒例の会見に臨まれていた。ここで、予期せぬ事態が生じた。
「前年からご静養されていた雅子さまが同行されないことについて質問があり、皇太子さまは『心底残念に思っています』と、お気持ちを代弁されながら『外交官としての仕事を断念して皇室に入り、国際親善を皇族として、大変な、重要な役目と思いながらも、外国訪問をなかなか許されなかったことに大変苦悩しておりました』と明かされた。また、ご自身のお気持ちも『後ろ髪を引かれる思いです』と吐露なさったのです」(当時を知る全国紙デスク)
そして皇太子さまの口から衝撃的なフレーズが発せられたのは、その直後であった〉
人格を否定するような動き
「週刊新潮」から続けて引く。
〈「雅子にはこの10年、自分を一生懸命、皇室の環境に適応させようと思いつつ努力してきましたが、私が見るところ、そのことで疲れ切ってしまっているように見えます。それまでの雅子のキャリアや、そのことに基づいた雅子の人格を否定するような動きがあったことも事実です」
会見の場が静まり返ったのは言うまでもない。
「会見の最後には『どんなことを念頭に置かれたお話なのか』と、補足質問が飛びました。皇太子さまは『細かいことは控えたい』とされながら『そのことで雅子も私も、とても悩んだ』と漏らされたのです」(同)〉
いわゆる「人格否定発言」が飛び出した瞬間である。前代未聞のお言葉に、世間は蜂の巣をつついたような騒ぎになったのだ。
発言の真意は
皇太子殿下はその2日後に渡航され、5月24日に帰国。が、ご不在中に騒ぎが鎮まるはずもなかった。「週刊新潮」によれば、
〈「5月17日には、宮内庁の羽毛田次長(当時)の会見で『社会的影響の大きい発言。あらためて具体的内容が説明されなければ、国民が心配する』との陛下(当時。現・上皇陛下)のお気持ちが示されました。結果として皇太子さまは、ご帰国後の6月8日、長官の会見を通じて文書でご発言の真意を説明せざるを得なくなったのです」(同)
その文面には、こう綴られていた。
「具体的内容について、対象を特定して公表することが有益とは思いません(略)皆さんにお伝えしたかったのは、私たちがこれまで直面してきた状況と今後に向けた話です」〉
「はっきり申し上げましたよ」
説明が抽象的な表現に留まったために、さらなる混乱が引き起こされていく。
〈「皇太子さまの苛烈なお言葉は、一体どなたに向けられたものなのか、と様々な憶測が流れました。一義的には、ご成婚当時から『外遊はともかくお世継ぎを』との空気が支配していた宮内庁、中でも歴代の長官をはじめとする幹部らへ向けられたものでしたが、そうした雰囲気をおのずと醸成なさっているであろう両陛下、とりわけ皇后さまにも切なるお声を届けたかったのではないか……。当時はそんな見方も、記者会では広まりました」(同)〉
そして、その裏では、以下のような衝撃的な出来事も起きていたという。
〈この6月8日の「説明文」が出される少し前、皇太子さまのご真意を伺うべく電話をかけてきた当時の東宮大夫に対して雅子妃は、
「そんなことをするのなら、私は皇太子妃を辞めます」
そう言って一方的に電話を切り、傍らの皇太子さまに「はっきり申し上げましたよ」とご報告される一幕もあった〉
「皇太子妃を辞める」、つまり「離婚」を口にされたというのである。
秋篠宮殿下の批判
7月、宮内庁は雅子さまのご病気を「適応障害」と発表。療養生活は続いた。
騒ぎは収まるどころかさらに大きくなり、殿下(当時)には、世間からばかりではなく、当の皇室の中からも批判が相次いだ。
〈「その年の11月、今度は秋篠宮さまがお誕生日会見でこの問題に触れ『記者会見という場所において発言する前に、せめて陛下とその内容について話をして、その上での話であるべきではなかったかと思っております。そのことは残念に思います』と、異例の兄宮批判をなさったのです」(同)
宮内庁内は言うに及ばず、宮中でも抜き差しならない状態が続いていた。それは、陛下が年末のお誕生日に、「皇太子の発言の内容については(略)まだ私に十分に理解しきれぬところがあり……」
そう言及なさったことからも明らかで、まさしく平成最大の危機が皇室を覆っていたのだった〉
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【後編】では、天皇陛下がこの苦難をどのように乗り越えられたかについて記している。進退窮まる中、陛下(当時は皇太子殿下)が美智子さまの手を握られ、涙を見せられながら、伝えたお言葉とは――。
デイリー新潮編集部
