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木鶏どころかいまだに闘鶏でした!

コロナ禍のなかで一年半ぶりに国技館を離れて行なわれた大相撲名古屋場所。千秋楽に賜杯を抱いたのは全勝優勝で復権を果たした横綱・白鵬でした。昨年の春場所優勝後は、コロナ禍での場所中止、全休4場所を含む6場所連続での皆勤ナシという状況に「進退」を懸ける場所となっていた名古屋場所でしたが、まさにチカラでねじ伏せた格好。さすがの白鵬でした!


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長い相撲の歴史でもわずか6回目だという千秋楽全勝相星決戦。前回これが起きたのは、9年前の白鵬と日馬富士によるもの。熱戦の末に、最後はケンケンから転がるように白鵬が倒れたあの一番です。この取組で日馬富士が二場所連続・通算3回目となる優勝を決め、場所後の横綱昇進を確実としており、ちょうどそのときに重なるようなシチュエーションです。横綱・白鵬か、それとも綱取りに挑む大関・照ノ富士か。9年の時を経てもなおそこに壁となって立つ白鵬というのは、ひとつの時代にはおさまらない存在だなと改めて唸ります。

そのときを思い起こしながら、僕は照ノ富士の勝ちと優勝を想像していました。壁は最後に破られるためにある。横綱・白鵬としては、「壁」としての力試しの意識で臨むだろうと。九分九厘確実とは言え、綱取りという大きな節目に差し掛かる相手に対しては真っ向からそのチカラを受け止めていくだろうと。となれば現状のコンディションなどからすれば照ノ富士が優位ではないか。あるいは復権を十分に示したところで、後継に土俵を託すということも想像の範疇にはありました。

ところがどすこい。白鵬はそんなこと知ったことかとばかりにギラギラと「勝利」だけを追い求めていました。相手の視界を手で遮ってからの実質「エルボー」と言えるかち上げ、そこから実質「ビンタ」と言える張り手の連打、小手投げで照ノ富士を倒したあとは渾身のガッツポーズ。横綱審議委員会もどこから苦言を呈したらいいか迷うほどの、おなじみの説教ポイントのオンパレードで、白鵬は雄叫びをあげていました。「木鶏たりえず」どころか現役バリバリの闘鶏のような闘争心は、さすが白鵬だなと感服するものでした。褒めはしませんが、元気で結構だなと思います!

↓怒られるポイントがたくさんあると、相手の小言が分散して威力を弱めるという高度な戦略!


まぁ、これぐらい勝ちたいんだという気持ちを、もっとほかに力士にも期待したいもの!

白鵬、まだまだ勝ちに餓えている!


さて、「優勝おめでとうございます」という気持ちはありつつも、言いたいことはたくさんあります。今場所の白鵬は横綱の相撲ではありませんでした。故障の影響、久々の場所、危うい一番もありましたし、横綱の理想とは程遠い相撲が多くありました。「後の先」などと言っていた頃の余裕はまったくなくなり、「いかにして相手のチカラを出させずに勝つか」ということに必死でした。

とりわけ14日目の正代との「距離を取っての組手争い」となった取組はいかがなものかと思います。仕切り線の遥か後ろ、土俵際まで下がって仕切る白鵬の姿は横綱が格下を相手に「胸を出す」というのとは程遠く、奇策・奇襲とも言えるものでした。白鵬自身も7日目の翔猿との取組で同じようなことを仕掛けられていましたので、「やられたことはやってもヨシ!」「よーし、自分もやってみよう」という気持ちもあったでしょうか。

あるいは、白鵬の頭には昨年春場所での正代との取組もあったでしょうか。正代のフワッとした立ち合いに、白鵬の張り差しが単なるビンタとなって空転し、そこからビンタ連発&引き技の末に正代に一気に攻め込まれ、寄り切りを許したというあの一番。どうせまわしが遠いのなら、正面からつかまえに行くよりも、距離を取って勢いを殺したほうが得、という計算もあったかもしれません。さすがに「栃煌山よりからかい甲斐のある相手」とまでは思っていないとは思いますが。とにかく、感心できない相撲でした。

↓ただ、正代も「え!?」ってなってちゃダメでしょう!


相手が勝手に土俵際まで下がってるんだからドーンと行きなさいよ!

引いたりはたいたりできるスペースなんてないんだから!


「勝てば官軍」という言葉があります。勝てば何でもいいのであると。それはある部分においては真理です。勝てば大抵のことは不問となります。ましてや白鵬は横綱です。勝たねば横綱はつとまりません。「品格力量抜群」である横綱にとって「勝つ」は最低限必要な条件です。勝てない横綱は身を退くしかない、それが綱の重みです。まさにその部分の衰えによって「進退」を問われている白鵬にとっては「勝つ」は復権に必要なステップですし、「勝つ」ことへの意欲がいささかも衰えない姿には感服します。

しかし、こうした姿は「品格」という部分においては、やはり不十分です。「勝つ」ことに特化した努力や工夫というのは「力量」の軸で評価されはしますが、「品格」の軸ではプラスにならなかったり、あるいはマイナスになるということさえあります。横綱は相撲の代表であり象徴であり看板です。生まれて初めて相撲を見た人にも、これが人生で最後の観戦と思って来た人にも「これが相撲です」という理想像を見せる必要があります。人間ですから理想通りにはできないこともあるでしょうが、少なくとも理想を目指すのだという姿勢は示さなければならない。

相撲とは何を理想とし、何が愛されるものなのか。

相撲の表記のひとつに「角力」というものがあり、現在でも「角界」などの用語に名残を残していますが、闘牛や牛の角突きのようなチカラとチカラの押し合い、ドーンと当たる迫力の力比べにこそ、相撲が相撲たる部分があると僕は確信しています。ほかのさまざまなスポーツにおいては軽微な失点・反則でしかない「場外」が勝敗を決するという特徴は、その力比べを重んじる価値観があればこそです。

↓「角力」のイメージはこんな感じです!


だからこそ、ときに200キロを超えるような巨大な力士が土俵上に並び立つという異質な光景も生まれるのです。「場外で減点1」程度の話であれば、押し合いでの勝ち負けを追求する必要もなく、押し合い一本に懸けてくる極端な力士もいなくなり、フットワークを活かして土俵のなかをにらみ合いながら周回するような戦いとなることでしょう。やがて体格や体重による有利不利が「階級」として整理され、200キロVS100キロの戦いが何のハンデもなく行なわれるような理不尽もなくなるでしょう。

そういう戦いも面白いとは思いますが、それならばレスリングや総合格闘技を見たっていいわけです。相撲の相撲たる光景というのは、その押し合いに真っ向から挑む姿勢があってこそ保たれています。西から爆走してくるトラックと、東から爆走してくる戦車がドーンとぶつかってドカーンといく。勝ち残った戦車に対して、もっとデカけりゃ吹っ飛ぶだろうと今度はダンプカーが突っ込んでいく。そういう価値観によって相撲は唯一無二の世界を保っているのです。

そこで「相手の側面から当たろう」とか「先にスタートして加速つけて当たろう」とか「バックして逃げよう」とか「まきびしでタイヤをパンクさせてやろう」とか「フロントに槍付けてエンジン壊そう」とか策を弄していくような行為は、相撲が相撲たる部分にそぐわないものだろうと僕は思います。「勝たねば生きていけない」という必要に迫られて、弱い者、格下の者、小さい者がいろいろと策を繰り出すのは致し方ないことですが、一番強い者はブオオオオンと爆走して真っ直ぐ突っ込んでこそです。それを保ってなお相手をねじ伏せるのが横綱であり、「あぁ、これは素晴らしいものを見た」と思わせるのが横綱のつとめなのです。

横綱に対して、奇襲を仕掛けないという不文律もルールとしての制約ではなく、示すべき理想像としての制約です。もちろん奇襲程度で慌てる者に横綱はつとまりませんが、「これぞ大相撲でございます」と世間にお示ししようというときに、ヘンなものを持ってくるなという話です。「これが寿司でござる」というときに「軍艦のなかに三日間煮込んだカレーを注ぎました」が出てきたら、何か違うでしょう。どれだけ美味しかろうが、それを代表作にされたら何か違うでしょう。カレーライスだもん。「何か違う」ことは、「何か違う」と言われない場所でやるべきであり、美味けりゃイイというものではありません。

勝ったから素晴らしい、ではなく、

素晴らしいから勝った、でないといけない。

「アウト相撲」とでも言うべき距離を取っての組手争いを自分から仕掛けたりするのは、それが相撲の理想像ということなのか。極論すれば「全部の取組がアレでもいい」と思っているかどうか、です。理想を追求したうえで、そのなかでの「勝ち」が讃えられるという順番を忘れてはいけないと僕は思います。横綱の相撲とはどの一番も、相撲の理想像というものをお示しできるように努めていってほしい、そう思います。

まぁ、今場所については休養明けで進退の懸かる場所ということでもあり、「力量」を示すことに全集中したという解釈で、今後の展開を見守っていきたいと思います。この様子なら来場所も「千秋楽全勝相星決戦」という可能性は十分にあると思いますので、そのときはこれぞ大相撲という一番を見せていただきましょう。「白鵬が後退したぞ…」「照ノ富士も下がった…」「うわ、睨み合ったまま1分経過」みたいなのは面白いですけど、ナシでOKです!



「闘牛士VS闘牛士」でお互いに布をヒラヒラさせて面白いのか、という話です!