女性の罪は美しさだけじゃない?平安時代の天才歌人・紫式部と清少納言それぞれの悩み

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世に「才色兼備(さいしょくけんび)」と言うように、美しくて才能もある女性は、いつの時代も持てはやされる……のかと思っていたら、日本の歴史を見る限り、案外そうでもなかったようです。

むしろ女性は仏教的観念から「業(ごう)が深い≒生まれつき罪を背負った存在」として卑しめられ、愚かであるべきとされていました。

女性は衆生(主に男性)を惑わし、その成仏を妨げる……つまり美しくて賢い女性は「男性のスケベ心を刺激して意のままに操り、社会を誤らせる」存在として、建前では忌避されていた一面があったようです。

紫式部の悩み

「女性は平仮名(ひらがな)が書ければ十分、余計な知識は持たない方がいい」

そんな世の価値観に悩まされた一人として、平安文学の最高峰とも言える傑作『源氏物語(げんじものがたり)』を執筆した紫式部(むらさきしきぶ)がいます。

才能は作品に隠し、日常生活ではおバカキャラを演じた紫式部。

彼女は幼少の頃から頭脳明晰だったそうですが、それが故にイジメにあったり、夫・藤原宣孝(ふじわらの のぶたか)から疎んじられたりしたため、自分の才能を隠して「おばかキャラ」を演じていた(※例えば、漢字の「一」さえ知らないフリをした)そうです。

それでも止処(とめど)ない知識欲と、あふれ出る創作意欲の結果として執筆した『源氏物語』が評判を呼び、ついには帝・一条天皇(いちじょうてんのう)をして

「この作者は日本紀をよく読んでいるのだろう。本当に才能がある」

【原文】この人は日本紀(にほんぎ)をこそ読みたるべけれ。まことに才(ざえ)あるべし。
※『紫式部日記』より。

と言わせしめたため、女房たちから「日本紀の御局(みつぼね)」というあだ名をつけられた上、日ごろの努力?もあっさりバレて「カマトトぶりっ子」認定され、より一層いじめられてしまうのでした。

フリースタイルな清少納言

……そんな可哀そうな紫式部に対して「女性が賢くて、何が悪い」スタイルを地で行ったのが彼女のライバルとして有名な清少納言(せい しょうなごん)。

歌川国貞「古今名婦傳」より、清少納言。文久三1863年

その代表作とも言える随筆『枕草子(まくらのそうし)』に綴られているように、彼女は「あれが好き、これは嫌い」など、竹を割ったようにハッキリとした性格で、男性陣とも対等に渡り合う(※)勝気なエピソードが各所に残されています。

※紫式部の亡父・藤原宣孝や従兄弟の藤原信経(ふじわらの のぶつね)を論破するなど、当時の男性優位な社会観においては、非常識な振る舞いとされていました。

「誰が何を言おうと、構うものですか。バカの負け惜しみなんて、聞き流してあげましょう」

そんな性格が多くのヘイトを集めたようで、かの紫式部も『紫式部日記』で清少納言をボロッカスに批判したのは有名ですね。

「清少納言なんて、インテリ気取りで漢字を書き散らしているくせに、誤字脱字が多くて読めたもんじゃない……あんな自己アピールはみっともないし、ロクな結末を迎えないものよ」

【原文】清少納言こそ したり顔にいみじうはべりける人 さばかりさかしだち 真名書き散らしてはべるほども よく見れば まだいと足らぬこと多かり かく 人に異ならむと思ひ好める人は かならず見劣りし……(中略)……そのあだになりぬる人の果て いかでかはよくはべらむ……。

※『紫式部日記』より。

「日本紀の御局」がどの口で言うのか、と思わないでもありませんが、もしかしたら「私の方が賢いもん!(……まぁ、奥ゆかしい私はそんなこと言わないけれど)」というライバル心だけでなく、「あんな自由奔放に振る舞えたら人生楽しそうだなぁ……」という羨望もあったのかも知れませんね。

学問の自由を望んだ女性たち

ただ、自由奔放に振る舞った代償なのか、清少納言の評判はその死後もかなりボロッカスで、鎌倉時代の『無名草子』『古事談』『古今著聞集』など後世の作品には、「才能のある女性は不幸になる」という迷信に基づく清少納言の転落エピソードがある事ない事これでもかと載せられたそうです。

「ただ女性に生まれ、真名=漢字を学んで書いたというだけで、身に覚えなき濡れ衣まで着せられねばならぬのか!」

そんな叫びが聞こえて来そうですが、彼女の名誉を守るために補足すると、息子の橘則長(たちばなの のりなが)は受領として越中国(現:富山県)を治め、娘の上東門院小馬命婦(じょうとうもんいん こまのみょうぶ)は藤原彰子(ふじわらの しょうし。道長の娘で一条天皇の皇后)に仕えてそれぞれ羽振りがよかったと言います。なので、もし清少納言が落ちぶれていようものなら、子供たちが母を放っておかなかったでしょう。

女性だって、もっと知りたい。色んなことを学びたい。吟光「紫式部ノ略伝」明治二十四1891年。

ひたすらに才能を隠そうと努めた紫式部と、才能を発揮する自由を求めて闘い続けた清少納言……彼女たちから見れば、望めば誰もが自由に勉強し、才能を開花できる令和の現代は、とても幸せな世の中に見えるかも知れませんね。

※参考文献:
池田亀鑑・秋山虔校注『紫式部日記』岩波文庫、1964年11月
池田亀鑑 校訂『枕草子』岩波文庫、1962年10月