日本史上唯一、二人の天皇が並び立った「南北朝時代」とは何だったのか
なぜ日本史上唯一、二人の天皇が並び立った時代が存在したのか?
混沌の時代であると同時に、抑圧されていた「下々」には「成り上がる」恰好のチャンスでもあった。「悪党」「バサラ大名」……後醍醐天皇も足利尊氏も、そのような時代を象徴する人物像ではなかったか?それまでになかった新たな「キャラクター」たちが既成の秩序を蔑ろに、新たな時代を切り開く。
鎌倉幕府の滅亡から後醍醐による建武政権の成立と瓦解、観応の擾乱を経て足利義満による南北朝合体まで、新刊『南北朝時代』では混沌の中から新たな秩序が生まれ出る過程を多彩な資料を駆使して活写する。
(本記事は、森茂暁『南北朝時代』の一部を抜粋・編集しています)
南北朝時代は天皇家の争いではない
まず、南北朝時代という時代名称について述べておこう。この名称は字義的にいうと、二人の天皇が登場したことで、それぞれの天皇のもとでの利害関係によって結集した武家や公家、寺家などさまざまな、社会における支配階層が互いに抗争した時代を呼び慣わしたものである。
時期的には、鎌倉幕府の滅亡ののち短命かつ形だけながら、いったんは全国政権を樹立した後醍醐天皇の建武政権が崩壊し、同天皇が大和国吉野に移った建武三(延元元、一三三六)年から起算して、同年、足利幕府によって擁立された光明天皇に始まる京都朝廷と合体された明徳三(元中九、一三九二)年までの約六〇年が狭義の南北朝時代である。このうち吉野の朝廷(一貫して吉野にあったのではない)を南朝と称し、片方の京都の朝廷を北朝と称し、二つの朝廷が並立した期間を南北朝時代と称している。
しかし、右の南北朝時代六〇年というのはあくまでも形式的な見方にすぎず、この時代が始まるまでの経緯や、合体後の南朝の行くすえ(いわゆる後南朝)までも含めた広い意味での南北朝時代のトータルな理解のためには、右の六〇年の前後に時間的な幅を取らねばならない。
しかし南北朝時代の本質は、単に南北両朝が皇位の正統性をめぐって抗争したことにあったのではない。今から五〇年前には、この時代を扱うシリーズものの題名をこのような見方にしたがって『南朝と北朝』とするものがあったが(例えば毎日新聞社『日本史の謎と発見7』昭和五四〈一九七九〉年二月)、こうした表記は、むしろこの時代の理解をミスリードする恐れなしとしない。すなわち、南北朝時代を単に「南北二つの王朝の争い」とみることは、時代の本質を見誤らせるのである。
ではその本質とは何だったのだろうか。後醍醐天皇を首班とする、建武政権という「全国政権」の束の間の成立から、南北朝の分立と動乱を経て室町幕府三代将軍・足利義満による公武統一政権の成立までを俯瞰すると、当初、後醍醐が武家を包摂する形で構想した建武政権が、逆に足利尊氏を継承した義満によって武家が公家を包摂する形での公武統一政権に逢着した、と理解するのが時代の実態に即している、そう筆者は考える。
南北朝の動乱真っ最中の文和二(正平八、一三五三)年五月、北軍(北朝=幕府軍)と南軍(南朝軍)との戦いに翻弄された北朝の前関白・一条経通は以下のような述懐を残している。
昨日の合戦、南軍と北軍おのおの御旗あり。その銘はともに「今上皇帝」、わが朝両主は何時の例たるや。衰乱の甚だしきなり。 (『玉英記抄』)
昨日の合戦では、南軍も北軍もおのおの官軍の標章としての「錦の御旗」をかかげ、その旗にはともに「今上皇帝」と銘されている。(天に二つの太陽はなく、国土に二人の王があることはないはずである)わが朝に、いったいいつ二人の主があったためしがあるというのか。国家ははなはだすたれてしまった。そのような意味である。一条経通は、万世一系であるべき天皇のポストが二つに分裂したことを慨歎し、そこに社会の衰乱の根本要因を求めているのである。
たしかに南朝と北朝は一条経通の言うように、利害を異にする政治勢力の結集の中核ではあったと言ってよい。しかし時代を動かしたのはあくまでも、そこに結集した多くの人間たちの主体的な行動であったことを忘れてはならない。
日本文化の「出発点」
このようないわば南北朝動乱を織りなした人間たちの動きは、『太平記』に余すところなく記されている。昭和四九(一九七四)年九月に北海道大学図書刊行会から刊行された『太平記人名索引』を一見すればわかるように、『太平記』に登場する人物は驚くべき数である。『太平記』は彼らの動きを通して動乱の時代をたくみに描き出している。明治時代にはその虚構性ゆえに『太平記』は史学に益なしと忌避されたこともあったが、その後の研究によって見直され、いまや『太平記』なくして南北朝時代は語れないといわれるまでに史料的価値を高めている。早い話、『太平記』を一読するだけで、南北朝時代の概要をあらかた理解することも不可能ではないのである。
東国を地盤とした鎌倉幕府が滅亡したあとの南北朝時代には、武家政治の中心たる幕府は京都に移転した。幕府が公家政治の中心たる朝廷と京都で同居することになったことにより、急速に公家と武家、都と地方の融合が促進された。政治や経済の面ではもちろんのこと、文化の面でも例外ではなかった。この中央と地方の文化の融合が、やがては日本固有の文化へと昇華する。こんにち日本の伝統文化の代表格というべき能、狂言、茶の湯、生け花などの多くの芸道はこの時代に起源をもつといわれている。
ここで最後に一つ申し述べておきたいことは、こうした南北朝時代をデザインしたそのもっとも中心的な登場人物が足利尊氏であったことである。右述のように南北朝時代は現代につながる日本人の生活文化の原形とも評されることに鑑みれば、この時代の骨格をかたちづくった足利尊氏は、現在の日本文化の創始者の一人と称しても決して過言ではない。本書では、この足利尊氏の動向を主軸としつつ、南北朝時代の展開過程をできるだけ史料に即して具体的に描くように努めたい。
