藤堂高虎はなぜ秀長に仕えたのか? 戦国時代の能力主義をひも解く──【羽柴秀長と藤堂高虎】

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NHK大河ドラマ「豊臣兄弟!」でも羽柴秀長の家臣として活躍する藤堂高虎。秀長に仕えるまで、わずか四年のあいだに四人の主人に次々と仕えた高虎の遍歴の背景には、戦国時代の非情な「能力主義」がありました。

「豊臣兄弟!」の時代考証を務める歴史学者・黒田基樹さんが、兄・秀吉の「補佐役」として奔走した弟・秀長と、秀長の腹心として最前線に立った名将・藤堂高虎の主従の実像に迫る『羽柴秀長と藤堂高虎』

本書から、第一章の一部を特別公開します。

『羽柴秀長と藤堂高虎』書影

浅井家家臣として

 高虎は元亀元年(一五七〇)六月二十八日の近江姉川(あねがわ)合戦(長浜市)に参戦し、浅井長政の軍勢に属して、敵兵の首をあげたという。続いて九月十五日(正しくは二十日のことだろう)に、近江宇佐山(うさやま)合戦(大津市)にも参戦し、また敵兵の首をあげたという。それらの戦功により、浅井長政から賞されて、太刀を与えられたという。

 この年から、浅井長政は織田信長と抗争するようになっていた。その最初の大きな合戦が姉川合戦であった。高虎は一五歳で、それに初陣(ういじん)として参加した。そこで早くも戦功をあげたという。これについては「藤堂家覚書」に最初に記されている。なお同史料には宇佐山合戦については記されていない。

 姉川合戦は、浅井方の敗北に終わり、それをうけて織田方によって横山(よこやま)城(長浜市)を攻略され、同城にはそれを攻略した木下秀吉が配置された。おそらく秀長も在城することがあったであろう。そもそも姉川合戦においても、秀長は、信長本軍か秀吉軍にあって参戦していたと思われる。そうすると秀長は、戦場で高虎を見かけることがあったかもしれない。高虎は人並み外れた身長であったろうから、目立っていたことだろう。秀吉や秀長の目に留まっていたとしても不思議ではない。

 浅井方は、姉川合戦に敗北し、横山城などを攻略されたものの、その後に織田軍が摂津大坂本願寺攻めに転じると、九月下旬に南近江に進軍して、織田方の拠点であった宇佐山城攻撃に向かった。十九日から二十日にかけて、坂本(大津市)で出城してきた織田軍と合戦し、それに勝利した。高虎が先述した戦功をあげたのは、この時のことであったろう。合戦に勝利したあと、浅井方は宇佐山城を攻撃するが、攻略できなかったため、同城を残したまま京都に入った。織田軍はあわてて摂津から戻って京都に入ってきたため、浅井方は本軍を坂本に着陣し、織田軍がさらに進軍してくると、比叡山に籠もった。結局、この戦いは和睦(わぼく)が結ばれ、浅井方は十二月十五日に比叡山から退陣する。高虎もおそらく、それらの軍事行動に従軍していたことだろう。

 元亀二年八月二十日に、織田軍が小谷城に攻めかかってきて、高虎は小谷城の大手で、敵兵の首をあげる戦功をたて、それに対して浅井長政から戦功を賞する感状(かんじょう)を与えられたという。その文面が「藤堂家覚書」に引用されている。

其方(そのほう)躮(せがれ)たると雖(いえど)も、今月廿日大手に於いて一番に首を打ち取る事、比類無き者也、戦功重累後、一遍〔廉〕(ひとかど)に取り立てるべき者也、

元亀二年八月廿九日    長政
藤堂与吉殿

 しかしここにみえる文面のうち、「躮」「戦功重累後」などの表現は、この時代の文章にみられることはない。また浅井長政の感状では、年号が記載されることは基本的にはみられていない。また内容についても、八月二十日に織田軍が小谷城を攻撃した事実は、他の史料で確認されない。たしかにこの時期、織田信長は近江北部に進軍しているが、小谷城を攻めた史料は残されていない。そのためこの感状は、後世に創作されたものと判断される。これは高虎にとって、最初に確認される史料となるべきものであるが、残念ながら当時のものとはとらえられない。

 なお小谷城は、この時期から二年後の天正元年(一五七三)九月に落城するまで、籠城戦を強いられることになる。「藤堂家覚書」には、その間にも「度々こうみょう〔功名〕成され」たことを記しているが、具体的な戦功についての記載はない。

高虎の遍歴

 そうしたところ元亀三年(一五七二)、高虎は一七歳の時に、山下嘉助(やましたかすけ)という者と諍(いさか)いをおこし、山下を討ち取ってしまったため、小谷城から退去して、浅井家家臣で山本山(やまもとやま)城(長浜市)の阿閉淡路守貞征(あつじあわじのかみさだゆき)のもとに身を寄せることになったという。ここからしばらく、高虎は目まぐるしいまでに主人を変えていくことになる。

 ここで高虎は、浅井家家臣とのあいだで喧嘩となり、即座に討ち取ってしまったという。喧嘩の理由は記されておらず、そうせざるをえない理由があったのかもしれないが、家中同士での喧嘩・刃傷は、いわゆる「喧嘩両成敗法」にみられるように、どの戦国大名・国衆(くにしゅう)においても禁止であった。にもかかわらず高虎は、相手を討ち取ってしまったというのだから、血の気の多さは否めないだろう。

 高虎が頼ったのは、浅井家重臣の阿閉貞征であった。父の虎高はそのまま浅井家にとどまったとみられる。高虎はいわゆる出奔したのであったが、阿閉に庇護されたということになる。なお「藤堂家覚書」には、一七歳の時に牢人(ろうにん)になって、阿閉のもとで、「ろう人分」として過ごしたことが記されている。「牢人分」というのは、所領を与えられた正規の家臣ではなく、扶持分(ふちぶん)(生活費)を与えられて、合戦の際に参加する契約を結んだ状態を指している。たいていはその後に戦功をあげるなどしたら、所領を与えられて、正規の家臣に加えられるものであった。

 ところが高虎は、その後、阿閉家でも問題を起こしたという。天正元年(一五七三)に、高虎は阿閉貞征の命令をうけて、同家臣の阿閉那多助(なたのすけ)・広部徳平(ひろべとくへい)の二人を誅殺したという。難なく成し遂げたため、高虎の武名は国中に広まったが、その後、阿閉家の中間(ちゅうげん)(武家奉公人)二人を切り殺すという事件をおこしたらしい。理由は記されていないが、喧嘩になるとすぐに討ち取ってしまうという、高虎の、やや危ない気質をみることができるようである。

 ここで阿閉家の中間を切り殺してしまったことで、高虎は阿閉家のもとにとどまることができなくなり、同家から退去し牢人になった。父の虎高は浅井家家臣としてとどまっていたものの、高虎は問題をおこして浅井家から出奔した身であったから、父を頼ることもできなかった。

 高虎が頼ったのは、もと浅井家重臣の磯野丹波守員昌(いそのたんばのかみかずまさ)であった。磯野はもとは佐和山城主(彦根市)であったが、二年前、織田方に同城を攻略された際に織田方に服属し、あらたに所領として近江高島郡を与えられて、大溝(おおみぞ)城(高島市)を本拠にしていた。高虎は、ここで織田方であった旧浅井家重臣を頼った、ということになる。

 これにより高虎は、浅井家の政治勢力とは決別して、織田家の政治勢力に属することになった。そして磯野からは、所領八〇石を与えられたという。これについては「藤堂家覚書」にも記されている。このことは、高虎がすぐに直臣として召し抱えられたことを示している。すでに高虎は、若年ながら武名を知られるようになっていたのだろう。そのため磯野は、高虎が頼ってくると、迷うことなく直臣に加えたのだと思われる。

 その年の九月一日には、浅井長政は自害し、小谷城は織田家に攻略されて、浅井家は滅亡した。その領国のうち、北近江三郡は浅井家攻略を担っていた羽柴秀吉に与えられ、秀吉はやがて長浜城(長浜市)を構築して、領国支配の本拠にした。高虎はすでに浅井家からは離れていたものの、浅井家家臣だった父の虎高は、浅井家滅亡をうけて本拠の藤堂村に隠遁したという。これによって藤堂家は、武家家臣は高虎だけという状態になった。おそらく、高虎は次第に父のもとにいた家臣たちを招き寄せて、新たな藤堂家の創設をすすめたとみられる。

 天正二年に、磯野員昌の養子に、織田信長の甥(弟信勝(のぶかつ)の子)にあたる織田七兵衛尉信重(しちひょうえのじょうのぶしげ)(のち信澄(のぶずみ))が入れられ、高虎は信重に仕えることになった。ただし信重が磯野家に入った時期については、当時の史料では確定されていない。同四年にそのことが確認されているにすぎないが、前後の状況と矛盾していないので、信重の入部はこの時のこととみることは可能である。ちなみに『高山公実録』では、磯野員昌および織田信重の居城を佐和山城としているが、これは明確な誤りであり、正しくは大溝城である。

 天正三年に、高虎は織田信重に従って、丹波攻めに従軍し、小山(こやま)城(南丹市)を攻めた際に戦功をあげ、また籾井(もみい)城(丹波篠山市)を攻めた際には、先陣をすすんで高名をあげた。そしてその功賞として、信重から佩刀(はいとう)を与えられたという。さらに帰国後には、「縨(ほろ)」(母衣(ほろ))衆に編成するとされた。しかし高虎は、「納得できないこと」があって、やがて信重のもとを退去したという。

 丹波攻めでの戦功については、「藤堂家覚書」でもみえている。丹波多紀(たき)郡小山城の城主は長沢治部大夫(ながさわじぶのだいぶ)(義遠(よしとお))で、織田信重・明智光秀(あけちみつひで)・滝川一益(たきがわかずます)が攻撃を担当し、高虎は信重の家中において、比類無い活躍をみせたという。

 この時の織田軍による丹波攻めは、天正三年九月から十月にかけておこなわれた。これにより、その丹波攻めには、丹波攻略を担当した明智だけでなく、織田信重・滝川一益も参加していたことが知られる。信重は、その明智光秀の娘婿となるが、結婚の時期は判明していない。しかしここで共同で軍事行動していることからすると、この時にはすでに結婚していた可能性はあるだろう。

 「藤堂家覚書」は、小山城攻めのあと、信重の母衣衆一〇人のうち一人が欠員していたため、家中で検討した結果、高虎を任命してきた。しかし高虎は、所領八〇石で母衣衆を務めることはできないといい、加増してくれるよう信重に要請したものの、信重からは、しばらくそれはできないと返答されたという。それをうけて高虎は、信重のもとから退去したという。『高山公実録』にみられた高虎が「納得できないこと」とは、所領の加増が認められなかったこと、であったことがわかる。

戦国時代の能力主義

 こうして高虎は、織田信重(信澄)のもとから去ることにした。高虎は元亀三年(一五七二)から天正三年(一五七五)までのわずか四年のあいだで、浅井長政、阿閉貞征、磯野員昌、そして織田信重と主人を変えてきた。浅井家・阿閉家からの退去は、家中紛争をおこし、相手を討ち取ったことで、家中に残れなくなったためであった。そこには高虎の気の短さ、血の気の多さをみることができるだろう。

 磯野員昌から織田信重への変更は、織田家側の都合によるにすぎなかったが、その信重からの退去は、高虎の気位の高さによるといえるだろう。母衣衆というのは、当主の親衛隊ともいうべき馬廻衆のなかでもエリートにあたり、それに編成されるということはすなわち、当主の有力側近家臣になるということであった。そのため高虎は、それに相応しい所領高を要求したのだろう。しかし断られてしまったため、いわば信重の器量を見限って、同家から退去することにしたのだと思われる。

 この高虎の行動からは、この時代の武将にみられた基本的な考えをうかがうことができる。自分の能力を評価し、それに見合った待遇を与えてくれる者を、主人として認めるということである。

 織田家は新興の政治勢力であった。そのため尾張時代からの譜代家臣は少数にすぎず、家臣の多くは新規に召し抱えたものになる。そのため家臣団構成の在り方も、旧来の家格秩序だけでは維持できず、おのずと有能な家臣が出世し、高い政治的地位についていくことになる。これまで出てきた羽柴秀吉・明智光秀・滝川一益はいずれも、当人の代から織田家家臣になった存在であり、それらが家老の地位につくようになっていた、という具合である。

 高虎にとって、織田信重は、先祖累代の主人ではなく、新規に仕えた主人にすぎない。そのため自身の能力を評価してくれないのなら、その主人をこちらから見限る、という行動に出たのだった。織田家とその家中は、領国拡大によって際限無く膨張していた。そこでは有能な家臣は、不断に求められる状況にあったことだろう。そうした膨張する家臣団という状況をもとに、能力主義的な考えが強まるようになっていたと思われる。すでに高虎も、そのような思考回路をもつようになっていたのだろう。高虎はこの時、二〇歳になっていた。

秀長に仕える

 そして天正四年(一五七六)に、秀長はその高虎を家臣に召し抱えた。所領三〇〇石を与えたという。またそれにともなって、高虎は通称を、与右衛門尉(よえもんのじょう)に改称したという。所領三〇〇石は、織田信重から与えられていた八〇石に対して、四倍近い増額である。有力側近家臣の待遇に相応しい所領高といってよい。秀長は、高虎の能力をそのように評価したのだった。そしてこれより、高虎は秀長の有力家臣の一人となっていくのであった。この時、秀長は三七歳、高虎は二一歳で、両者の年齢差は一六歳もあった。こうして秀長と高虎の主従関係が成立した。

 とはいえ、秀長が高虎を家臣にすることは、簡単なことではなかったであろう。旧主人の織田信重の了解を得る必要があったに違いないからである。家臣側で能力主義的な考えが強まって、勝手に主家から退去することがみられるようになると、主人の側は、その行為を主人への敵対行為として、討伐の対象にするようになっていた。主人の側から解雇するのでなく、家臣の側が勝手に退去することは認められなかった。家臣の新たな仕官先が、他国の政治勢力であったら、そのことは問題になりようがなかったが、同じ政治勢力、この場合のように同じ織田家の家中内のことであれば、それは家臣同士の紛争を引き起こした。のちに明智光秀と稲葉一鉄(いなばいってつ)のあいだで、もと稲葉家家臣で明智家の家老になっていた斎藤利三(さいとうとしみつ)について、稲葉から返還が要求され、それが織田信長の裁定にまでいたるようになったが、そうした問題が引き起こされるのだった。

 この高虎の場合について、具体的な事情は明確ではない。しかしながら秀長から織田信重に、その了解が求められたことだろう。あるいは秀長のほうから、高虎の能力を見込んで、はたらきかけたことも考えられる。その場合はいわゆる引き抜きということになる。実態がどうであったのかは判明しないが、織田信重から了解を得てのことであったのは、間違いないと考えられる。ただしこの時の秀長は、信長の直臣とはいえ、兄の秀吉の与力という立場にあるにすぎなかった。織田家一門衆の織田信重と、対等に交渉できる立場にあったのかどうかは微妙だろう。その場合には、兄の秀吉から申し入れがなされたことも考えられる。この時の秀吉は、すでに織田家の有力家老の一人になっていたから、一門衆の織田信重とも、対等に交渉できたからである。

 こうして秀長は高虎を家臣にした。とはいえ秀長家臣としての高虎の活躍がみられるようになるのは、これから四年後の天正八年まで待たねばならない。そもそもその間は、秀長の動向自体がよく確認できない状況にあった。

『羽柴秀長と藤堂高虎』では、

・第一章 秀長と高虎の出会い
・第二章 秀長・高虎の活躍と羽柴政権の成立
・第三章 軍事・外交で天下一統を支える
・第四章 政権維持に奔走する秀長と高虎
・第五章 秀長の死とその後の高虎

という構成で、秀長とその腹心である高虎が、いかに羽柴政権を支えたのかを明らかにします。

黒田基樹
1965年生まれ。早稲田大学教育学部社会科地理歴史専修卒業。博士(日本史学)。専門は日本中世史。現在、駿河台大学教授。著書に『戦国大名の危機管理』『羽柴を名乗った人々』(以上、角川ソフィア文庫)、『秀吉を天下人にした男 羽柴秀長』(講談社現代新書)、『羽柴秀長の生涯』(平凡社新書)、『羽柴秀長とその家臣たち』(角川選書)、『戦国大名北条氏の領国支配』(岩田書院)、『中近世移行期の大名権力と村落』(校倉書房)、編著に『北条氏年表』(高志書院)、監修に『戦国大名』(平凡社別冊太陽)など多数。
※刊行時の情報です

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