子分たちにバクチを打たせ、労働賃金の頭をはねた…3代目山口組組長すら憧れた侠客の元祖・幡随院長兵衛の生々しい実像

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かつて20万人もの構成員を擁した暴力団。

覚せい剤の輸入や賭博、みかじめ料の徴収で莫大な収益を上げ、1980年代の年間収入は推計8兆円に達したと言われる。だが平成に入って以降、暴対法の制定や警察の行き過ぎた捜査、メディアによる批判的な報道が原因となり、暴力団は衰退の一途をたどってきた。

では、暴力団が社会から消えていくことは、我々一般国民にとって「良いこと」だけなのだろうか?しばし「必要悪」として語られてきた“やくざ”の実態を、『やくざは本当に「必要悪」だったのか』より一部抜粋・再編集してお届けする。

正体は博打の親分

田村栄太郎『江戸やくざ列伝』(雄山閣)によれば、幡随院長兵衛については概略、次のように記されている(適宜要約、表記を変更してある)。

彼は男伊達・侠客などといわれているが、博徒の親分である。長兵衛の時代は、土木人足請負業を盛んにするため、人足を多く支配下に置かなければならず、博打を打ち、自宅を賭場にして集めるのが手段であった。

長兵衛はどこの生まれかと言えば、父祖は九州肥後(今の熊本県)である。若い時分の名は塚本常平といった。

青年時代、江戸の武家奉公人の口入れ屋をしたらしい山脇惣左衛門の世話で、「渡り徒士」として花房大膳のところに住み込んだ。渡り徒士というのは雇用契約によって家来になるのだから、普通の世襲家来とは違っていわゆるすれっからしが多い。

ここに勤めているうち、喧嘩の末に人を殺し死罪に決まったのを幡随院和尚が助命を願って助かったという説もあるが、どうもこの説は怪しい。しかし幡随院にいたことは確かに違いない。とにかく青年時代から博徒の群に投じて乱暴を働いていたということだけは事実である。

いずれにしても、渡り者として武家奉公の後、ともかく山脇の娘を妻とした。そして義父の口入れ稼業の割元を花川戸で開業した。これは口入れ・人足廻し・元締め・割元などという今の周旋屋のような手数料を取るだけでなく、人足たちを子分として自宅に置き、バクチを打たせ、労働賃金の頭をはねたのである。

なぜ旗本に殺されたのか

ここでちょっと長兵衛の(戦いの)相手方となる水野十郎左衛門と人足の関係を述べておく。

徳川幕府の旗本で3000石以下の無役の者は、「小普請入り」というのを命ぜられる。

小普請入りの旗本は、戦時出兵の義務の代わりに江戸城などの修理の小普請に人足を出す。彼らを支配するのが小普請奉行である。この奉行は年中修繕または工事を職務として、工事の都度、配下の旗本のうち百石以上の者に、夫役という人足を課し、百石ごとに2人ないし3人ずつ出人足を命ずる。また500石以上の者には、右の人足の他、さらに杖突きという人足の監督一人を出させる。

このため、小普請入りの旗本は、特別に中間の人足を抱えて、奉行の命令に、応ずるだけの準備をしておかなければならない。ところが譜代の中間を抱えておくのはすこぶる不経済であるから、日常に必要なだけ1年契約の年期奉公の中間を抱え、小普請奉行に出す人足の方は、臨時に口入れ屋に頼んだのである。しかし口入れ屋から来た人足に過失があっても旗本の責任になるので口入れ屋に人足の身元引受人をさせていた。口入れ屋はこういう面から請け宿ともいい、いつでも旗本の希望通りの人数を供給した。従って知行2500石の旗本であった水野家は、口入れ屋となった長兵衛の顧客だった。

水野十郎左衛門は小普請組、水野出雲守の長男であった。彼は道を譲る武家や町人を尻目に、遊び場所として芝居などに出入りして、公方の尻持ち・男伊達と揚言し、町奴と勢力を争い、喧嘩を仕事の一つとした。

長兵衛が十郎左衛門か、その一統のために殺されたことは事実だが、実録物などにあるような旗本と町奴との対立からではないことは確実である。

侠客であることへの疑義

田村のこの本を見ると、幡随院長兵衛も田岡一雄が尊敬するような大人物とはちょっと考えにくい。ごくありふれた市井の親分という感じがする。

たとえば飯場に鉱夫を抱え、鉱夫をつなぎ止めるため飯場で賭博の場を開く。賭博場を開帳するのは幡随院長兵衛であり、彼がテラ銭をとる。このような形態は昭和2、30年まで鉱山や工事現場でよく見られた。幡随院に特性が見られるとしたなら、彼が人足たちへの思いやりが深く、争い事には人足の側に立って解決に当たったからだろう。人柄はよかったにちがいない

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