離婚、子連れ上京、30歳前の再出発…朝ドラ『風、薫る』のモデル・大関和に学ぶ「逆転のキャリア術」

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NHKの連続テレビ小説「風、薫る」が始まり話題を呼んでいる。主人公のモチーフとなっているのは、日本の「看護婦」の草分け的存在である大関和(おおぜき ちか)と鈴木雅(すずき まさ)。女性が医療分野の仕事に就くことが考えにくかった明治の頃の話である。どのようにして、2人は看護の世界に飛び込んだのだろうか。その激動の生涯を著述家で偉人研究家の真山知幸氏が解説する。(JBpress編集部)
夫の不貞と封建的な結婚からの脱却
大関和は安政5(1858)年、下野国の黒羽藩(現・栃木県大田原市)で、父の大関弾右衛門(おおぜき だんえもん)と、母の哲との間に生まれた二男三女の次女である。
弾右衛門は、国家老(くにがろう)を務めた。国家老とは、大名が江戸在勤の間、国もとに残り藩政を預かる役割を担う、藩における最高職である。
だが、明治維新後に父の弾右衛門は、家老を辞職する。その後については、縁戚を頼って一家で上京したとする伝記や文献は多いが、定かではない。家老を辞した弾右衛門が家知事となりながらも黒羽藩に残り、死後は黒羽で葬られているからだ。一家は上京せずに黒羽に残ったという見方もある。
弾右衛門はやがて病に伏せたが、家で子どもたちに四書を講義することをやめなかったという。
「いかなるときも学問を怠るな」という父の言葉を受けて、和は書道と算術の塾に通い続けた。和の学問的素養を培った父は、50歳で病死。和の縁談をまとめると、間もなくして亡くなっている。
父が体調不良のなか奔走してまとめた縁談だったが、和にとっては幸せな結婚ではなかったようだ。
相手は渡辺福之進(豊綱)といい、大地主だった。結婚したとき和は18歳で、福之進は40歳。22歳の年の差婚だ。ただ、和にとっては年齢差よりも大きな問題があった。福之進に多数の妾がいたことである。
「妾との関係を解消すること」という条件で、和は福之進と結婚。一男一女をもうけるが、夫は妾たちとの関係を続行している。福之進からすれば、母が家柄にうるさいので、落ちぶれても元国家老の娘である和を、正妻に迎えたに過ぎなかったようだ。
そんな夫に嫌気が差した和は、離縁を決意。第2子で長女の心(しん)を身ごもったタイミングで、出産を理由に第1子で長男の六郎とともに実家に帰り、そのまま夫のもとに戻ることはなかった。

大関和の地元、栃木県大田原市に建立された記念碑(写真:共同通信社)
2人の子を抱えた「ゼロからの再出発」
出産後、体調が回復するのを待って、和は2人の子を連れて上京を果たしている。
和の父・弾右衛門は国家老として15代藩主の大関増裕(おおぜき ますひろ)に仕えたが、その増裕から家督を継いだ養子の大関増勤(ますとし)が東京にいた。また、増勤の養母で増裕の妻・於待(おまち)も東京在住だったため、「何とかなるか」と飛び出したのだろう。
このときに「母や妹も一緒に東京に出たのではないか」と見ているのが作家の青山誠で、『大関和 看護に人生を捧げた日本のナイチンゲール』の中でこう書いている。
〈当時の“実家”は黒羽にありチカもここで長女を出産し、福之進との離縁が成立した後に母や妹たちと一緒に上京したとする文献も存在する。こちらのほうが、しっくりとくる〉
福之進と離縁してからの和の行動力を思うと、確かに娘を連れて1人で上京したとは考えにくい気もする。
上京した和は、植村正度が経営する「正美英学塾」へ通い始めると、正度の兄・植村正久が牧師だったことから、教会にも顔を出すようになる。
行動は重ねれば重ねるほど、次なる場所へと自然と足が向かうもの。このときの和もそうだった。鹿鳴館で慈善バザーが開催されることを新聞の号外で知ると、和は参加を決めている。
とはいえ、鹿鳴館といえば上流階級の社交場で、この頃できたばかりの注目のスポットだ。さすがの和もしり込みしたようだが、正久の母から背中を押されたため、於待を伴って鹿鳴館へと向かった。
きらびやかな貴族や海外の賓客に圧倒されながらも、和はあることに気づく。夫婦がみな対等に見えるのだ。聞けば、キリスト教では「一夫多妻」は許されておらず、「一夫一婦」が西洋だとスタンダードだという。妾の存在に苦しんだ自分は、何もおかしなことではなかったのだ。和はそう勇気づけられたようだ。
それ以降、さらに熱心に教会に通った和。ある日、正久から勧められたのが、「看護婦」という職業だった。
偏見を乗り越えた「専門職」への挑戦
明治19(1886)年11月、和は桜井女学校に開設されたばかりの附属看護婦養成所に1期生として入学する。
だが当時、病院で雇われて患者の世話をする者は、社会的評価が著しく低かった。和も正久から打診されたときは、こんな抵抗感を抱いたという。
「いかにおちぶれたといえども、看護婦とは情けないことです」
だが、正久にこんな言葉を投げかけられて、和の気持ちは変わっていく。
「職業に貴賤はありません。つまらないプライドにこだわって、何もせずに空しく時間を費やすよりも、人助けになる仕事をするべきではありませんか」
正久の言葉が響いたのは、実際に「看護教育」が欧米で確立しつつあるという事情も説明されたからだろう。イギリスでは1860年にナイチンゲール看護学校が設立。欧米諸国も後に続き、看護学校が次々と設立されていた。
一方、日本の病院では、看護の知識も技術もない素人が「看護婦」「看病人」として働いていた。感染リスクも高く、不潔な仕事として敬遠されがちだった。
実のところ、欧米でも看護婦の仕事はもともと蔑まされており、かのナイチンゲールが看護婦の夢を親に打ち明けたときにも「看護婦という恥ずべき職業を口にするな」と激怒されている。
反対する親をなんとか説得しながら、ナイチンゲールはクリミア戦争に看護師として従軍。最初にやったのが、病院の劣悪すぎる衛生環境の改善だった。ナイチンゲールの活躍によって、看護婦のイメージは大きく変わっていったのである。
そんな時代のトレンドを踏まえれば、日本でもこれからは欧米のように、看護婦の専門教育が進んでいくはずだ。
正久のそんな説得によって、和は看護の知識と技術を持つ「トレインドナース」を目指すべく、看護婦養成所で一から学ぶことを決意したのであった。
優秀な同期・鈴木雅との出会いと切磋琢磨
28歳にして大きな一歩を踏み出した和。看護婦養成所の入学式でひと際目立っていたのが、1歳年上の鈴木雅だった。当時の女性には珍しかったショートカットで、スラリとした体形だったために洋服がよく似合ったという。
入学後、雅はますます注目されることになる。入学前に横浜のフェリス・セミナリーで英語を習得しており、英語力でも同期生のなかで際立っていた。さらに頭の回転が速いうえに、努力も惜しまず、授業の予習を欠かさなかったという。専門用語への理解も深く、和としても優秀な雅に圧倒される思いがしたに違いない。
年齢が近かった和と雅は寮で同室となり、生活を共にすることになった。そこでお互いの境遇を知り、似たところがあると盛り上がったのではないだろうか。
というのも、雅もまた和と同じく2人の子持ちでシングルマザーだった。雅の場合は、陸軍軍人の夫が、西南戦争中に負った銃創がもとで、赴任先の仙台で病によって命を落とす。「自分の看護が不十分だったせいではないか」と、雅は夫の死をひどく後悔し、看護婦を志すこととなった。そんな背景を知り、和はますます雅に心惹かれたことだろう。
日本初のトレインドナースとなる大関和と鈴木雅は、このようにして出会った。
在学中は雅の優秀さが際立つが、卒業後は、和もまた職場で高く評価されることになる。前半生での度重なる逆境で培われた度胸のよさが、看護の現場で重宝されたのだ。
朝ドラ『風、薫る』では、そんな2人の奮闘ぶりがこれからいよいよ描かれることになる。今後の展開が楽しみである。
【参考文献】
『大関和 看護に人生を捧げた日本のナイチンゲール』(青山誠著、角川文庫)
『明治のナイチンゲール 大関和物語』(田中ひかる著、中公文庫)
『戦う白衣の天使 大関和・鈴木雅ものがたり』(櫻庭由紀子著、内外出版社)
『ナイティンゲール伝 他一篇』(リットン・ストレイチー著、橋口稔訳、岩波文庫)
「フロレンス・ナイチンゲールの生涯」『宮本百合子全集 第十四巻』(宮本百合子著、新日本出版社)
筆者:真山 知幸
