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広島という土地が育てたメーカー

マツダが若手メディア編集者向けに開催した体験会、その2日目のことです。(初日の様子は、【黒木美珠がマツダ体験会をレポート:クルマ体験編】まさかの北米向けCX-90、中国向けEZ-60まで用意 味付けの違いがくっきり 参照)

【画像】マツダ防府工場でクルマ作りも見学【マツダ体験会レポート】 全20枚

防府工場へ見学に向かう途中、ランチを兼ねてホテルに立ち寄り、宴会場で同社のクルマづくりの歴史を伺う機会がありました。


マツダが若手メディア編集者向けに開催した体験会に参加しました。    マツダ

参加するまで、このブランドを本当の意味で知らなかったと思います。ロータリーエンジンがあって、広島のメーカーで、デザインがきれい。大げさに言うとそのくらいの認識でした。読者の方には常識的な話かもしれませんが、私にとっては初めて聞く内容も多く、話を聞くほどに見方が変わっていきました。

このメーカーが生まれたのは1920年の広島。創業時は東洋コルク工業という社名で、自動車とは少し縁遠いところからのスタートです。

広島という土地について聞いたとき、まず自分の中のイメージとのギャップに気づきました。洗練されて都会的な、きれいな街。そんなイメージがありましたが、実はもともと農業には向かない地形で、古くから砂鉄を使った製鉄文化が根付き、造船や金属加工へと技術が積み重なってきた土地だそうです。近くには呉もあり、戦前は軍都として発展。

なるほど、だからこそ自動車メーカーが根を張れたのかと、話がすとんと落ちてきました。そういう土壌の上にこの企業は生まれた。単なる発祥地という話ではなく、この土地だからこそ生まれた会社なのだ、と思えてきます。

マツダはなぜ広島を離れないのか

1945年、広島に原爆が投下されました。市街地の中心部は壊滅的な被害を受けましたが、マツダの工場は中心部から少し離れていたために、屋根や壁に一部損傷があったものの、建物としてはまだ機能する状態だったといいます。そこに、行き場を失った広島県庁、市役所、報道局が間借りをしました。

すべてを失った人々が肩を寄せ合い、マツダの工場を拠点に、復興へと立ち向かっていったのです。


マツダの工場を拠点に復興へ立ち向かう話を聞き、鳥肌が立ちました。    マツダ

これを聞いたとき、鳥肌が立ちました。たまたま工場が残っていた。その『たまたま』が、どれほど多くの人を支えたか。そしてその出来事が、マツダと広島の間に、どれだけ強い絆を生んだのか。

さらに胸に刺さったのが、その後の話です。

マツダが経営危機を迎えるたびに、広島の人々が『マツダ車を買って支えよう』という動きを自然と起こしたというのです。企業が地域のために動き、地域が企業のために動く。恩を返すように、手を差し伸べあって。

そういう関係が100年以上続いてきたのです。このメーカーが広島を離れない理由が、見えた気がしました。

正直、メモが止まらなくなった

同社が繰り返し使う『人中心』というキーワード。最初はブランディング用語に聞こえていたのですが、この歴史を知ってから聞くと、重みが違います。

講義で紹介されたのは、クルマを工業製品としてではなく、人の生活文化に寄り添う存在として捉えてきた長い積み重ねでした。


『人中心』というキーワード。歴史を知ってから聞くと、重みが違います。    マツダ

生活を豊かにすること、技術を追求すること、美しさと個性を両立させること、品質に心を込めること。どれも近年生まれたスローガンではなく、ずっと受け継がれてきた思想だといいます。

現在の研究開発でも、その姿勢は変わりません。運転が好きかどうかが幸福度に影響するという分析。加速度の感じ方や音を人の感覚としてモデル化しようとする試み。クルマを作る前に、まず人を知ろうとする視点。気づいたら、メモが止まらなくなっていました。

広島に生まれ、広島と支え合いながら、人のためのクルマを作り続けてきたメーカー。これほど地域との絆が深い自動車メーカーが、他にあるでしょうか。

その後の工場見学でも、マツダ車を見る目が変わっていったのは言うまでもありません。学びの多い、貴重な二日間となりました。